日本史概説 I(12春)

遅ればせながら、このブログでもレポート課題の告知を行っておきます。また、評価のポイントについても載せておきましたので、執筆の際の参考にしてください。

【テーマ】 講義で扱ったトピックを任意に選んでテーマを設定し、調査・考察して、自分なりの結論を導き出しなさい。※ 自分なりの問題観心を持つこと、文献は批判的に読み込むこと、事実/見解を区別すること、他人の見解/自分の見解を区別すること、起承転…

那須国造碑は、なぜ年号に唐のそれを用いているのでしょうか。 / 那須国造碑は、付近にある侍塚古墳と関係がありますか。

那須国造碑は、授業で紹介しなかった後半の韋提の生涯を綴った部分は、対句調の四六駢儷体で書かれています。すなわち漢文の美文調で、唐太宗の「金鏡」、高宗の「大唐三蔵聖教序記」から字句を撰んでいることが判明しています。中国文化に準拠することで自…

蝦夷の人々は、ヤマト王権に制圧される以前に、他の国々と関わったりしていないのでしょうか。また、アイヌの人々の存在を、当時の朝廷は認識していたのでしょうか。

北方の民族とは様々に交流、交易していた可能性があります。ただし、この時点では東北・北海道の地域社会も幾つかに分裂しており、統一的王権の形で外交するという段階には達していません。『書紀』斉明天皇4年(658)是歳条には、「越国守阿部引田臣比羅夫…

日本は唐から律令制を輸入しましたが、官僚登用制度である科挙は導入したのでしょうか?

過去に一度回答したことがあります。下記を参照してください。http://d.hatena.ne.jp/hojo_lec/20100719/1279530874

平安時代の貴族は、男性が求婚したり離婚したりするときに主導権を持っていたと古典で習ったのですが、この当時はどうだったのでしょう。財物に関する取り決めができるほど離婚が多かったのですか?

平安時代には男性優位の性愛関係が構築されており、例えば性交渉を持つ場合も、女性の側から積極的に、というあり方は好ましくないものと考えられるようになっていました。しかし奈良時代以前には、女性の側にもそうした行動が認められていたのです。『書紀…

薄葬令など風俗改正の詔について、文字を読めるわけでもない民衆に、どのように命令を遵守されたのでしょうか。口頭だとしても、すぐ忘れるのではないでしょうか。

律令体制下においては、国家の重要な命令は、末端の里長が口頭で伝達することになっていました。これは、各村落共同体の統治の仕組みを利用したものです。いくら古代社会といっても無秩序な社会ではなく、村には村の慣習法、固有法が存在し、首長によって統…

国郡制は、中国の郡県制を模したものでしょうか。 / 国造のクニを評に改め、評家を建てて公民支配の要にしたとのことですが、もともと国造に任命されていた人が、そのまま郡司に補任されたのでしょうか。

基本的には、世襲の委任統治である国造制を廃し、中央派遣の国司を頂上に置く行政機構を設置したので、郡県制に近いものです。しかし、国の下部単位である郡=評には、もとの国造ら在地豪族を任用するなどしたので、中央集権支配の枠組みを地方の在地的文脈…

乙巳の変で実働部隊を務めた「犬飼」の一族と、5.15事件で殺された犬養毅とは関係があるのでしょうか。

少々難しいですが、直接的関係はないようです。犬飼の系列は、授業でお話ししたように、供御の狩猟や屯倉・宮殿の警備のために犬を飼育・活用した氏族です。後に橘氏を生じる県犬養氏などは、神魂命8世孫阿居太都命を祖神とすると伝えています。しかし犬養…

入鹿の殺害後に、中大兄は蝦夷の殺害まで考えていたのでしょうか。

恐らくクーデター勢力は蘇我の本宗家を滅ぼすことを計画していたので、蝦夷についても当然滅ぼすつもりでいたでしょう。とくに蝦夷の邸宅は、飛鳥板葺宮と向かい合う甘樫丘に建てられていましたので、彼が勢力を糾合する前に決着をつけたかったはずです。入…

乙巳の変の実行の舞台は偽の三韓進調の場であったとされていますが、入鹿ほどの権力者を抜きにそうした場を設定できるものでしょうか。

私もそう思います。崇峻暗殺のときと同様、これは『書紀』の演出である可能性がありますね。中大兄と鎌足の出会いの場は、大王への服属儀礼が実施された飛鳥寺西の斎槻の下でしたし、三韓進調も同一の意味を持った儀式です。あえて服属や忠誠を意味する舞台…

斎槻はそもそも宮廷に植わっていたのですか。それとも、神聖なものなので後から植えたのでしょうか。

斎槻の広場は、飛鳥に宮が重層化する以前から存在した可能性があります。『日本書紀』には、飛鳥寺を建てる際に、飛鳥の衣縫造の祖「樹葉」の家宅を破壊したと記されています。名前から考えても、この「樹葉」が飛鳥の樹木信仰の中心であり、その信仰の中心…

『書紀』の乙巳の変の記事に登場している「俳優」は、歌舞をするだけでなく、何か政治的な役割を担っているのでしょうか。 / ドラマ『大化改新』で俳優が被っていたお面は、ペルシャっぽい雰囲気でしたがどこのものですか?

当時の宮廷において演じられた歌舞には、大別して在来系と外来系のものがありました。後の律令制雅楽寮において規定された演目をみてみると、前者は国土統一の物語りを基礎とする集団演舞で、神武東征や蝦夷征討などと関連する久米舞、朝鮮半島の経略などと…

乙巳の変に関する『書紀』の記述には、典拠となるような史料は発見されていないのでしょうか? / 『書紀』の乙巳の変に関する描写の細やかさが、中国の『史記』の荊訶による始皇帝暗殺部分の細やかさに似ている気がした。鴻門の会の部分にも、演劇性における共通項を見出せないこともない。何か影響を受けているのでしょうか?

古代中国には、「偶語」と呼ばれる宮廷演劇があり、中国史の野間文史氏などは、例えば『春秋左氏伝』の説話的部分の典拠として演劇の媒介があったことを想定しています。『史記』が依拠した史料群のうち、「その場でみてきたような」事件に関する記録は、や…

『日本書紀』は、中国にみせるために編年体で書かれているんですよね? 偽装ばっかりの歴史を中国は受け容れたのでしょうか。そもそも本当に『書紀』を中国にみせたのでしょうか?

舶載していった可能性はありますが、結局はみせていないでしょう。当然、『書紀』を撰した編纂官たちは、その限界を熟知していたと思われます。ただし、後世に至るまで『書紀』の正史としての地位は揺るがず、幾度か講義もされていますので、例えば新羅や渤…

私は陰陽師が大好きなのですが、何かオススメの本はありますか。

陰陽道の研究は、ここ15年ほどの間に飛躍的に進展しました。以下のものを参考にするとよいでしょう。○全体的なもの :小池淳一・林淳編『陰陽道の講義』(嵯峨野書院、2002年)、鈴木一馨『陰陽道―呪術と鬼神の世界―』(講談社選書メチエ、2002年)、山下克…

聖徳太子のイメージを構築したのは何者なのか、という研究があれな教えてください。 / 聖徳太子についてのよい参考文献はありますか?

大山誠一さんの論考が主なものですが、他の研究者も加わって論じているものが多角的でよいと思います。同氏編の、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)・『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)がおすすめです。

神道の成立は中世ということでしたが、そのベースである日本神話は古代からあったと思います。神社の研究などをするにあたっては、中世史と古代史、どちらの分野になるのでしょうか。

神社は神道以前より存在しますので、古代史で扱うことができます。中世の神社を位置づける言説は神仏習合的なもので、『古事記』や『日本書紀』の神話とはまた質の異なるものになっています。

レポートで男性器がなぜ崇拝されたのか書こうと思ったのですが、あまり文献がありません。

春成秀爾『儀礼と習俗の考古学』(塙書房、2007年)に、「性象徴の考古学」という論文が収録されていますので参照してください。

推古天皇ら女帝の即位は、当時問題にならなかったのですか。また、女性天皇は、現在なぜ問題視されているのでしょう。

問題とされたのは、奈良時代の阿倍皇太子=孝謙・聖徳のみです。先帝の大妃であったものが皇統を維持すべく即位するということについては、群臣の了承も得られていたようです。現在女性天皇が問題視される理由は、ひとつには父系直系のシステムが明治に出来…

日本古代の女性天皇は、中国の女帝と同じ定義ですか?

女性天皇については先にも書きました。中国との比較で考えるなら、日本の女性天皇は、多くが皇統を継続させるため不可避的に即位した存在であり、積極的に自ら権力を拡大してゆこうと考えたわけではありません。皇位を簒奪したという事例もありませんので、…

馬子は王権を手中にしていたと考えてよいのでしょうか。

大王として即位していたかどうかは別問題ですが、当時の政治はほぼ馬子によって行われたとみてよいでしょう。

境部摩理勢は、蘇我氏の人間なのに、なぜウヂ名が境部臣なのでしょうか。

境部とは、外交使節等々の都への出入に関し境界儀礼を行う部民集団であり、境部臣はその統括者です。境部は阿倍氏の部民などから編成されたと考えられていますが、職務上摩理勢は、外交・対外軍事を担うようになってゆきました。蘇我氏は渡来系氏族の統括も…

なぜ蘇我側の人間である山背大兄王が入鹿に殺されねばならなかったのか、いまひとつ分かりません。蘇我勢力弱体化の原因となった彼を殺すより、蝦夷をトップから変えた方が後腐れないのではないでしょうか。

蘇我氏のトップ自体は、優柔不断な印象のある蝦夷から急進的な入鹿へと移ってゆきます。蝦夷や入鹿に批判的な『書紀』ではなく、中臣鎌足の伝記である「大織冠伝」などをみると、入鹿が極めて優秀で威望を集めた人材であったことは間違いないようです。彼は…

任那日本府を作る利点は何だったのでしょう。海の向こうに作れば連絡を取るのも大変ですし、もし攻め込まれたりすれば何もできないと思うのですが?

この出先機関が置かれた当時、朝鮮半島南方の加耶諸国は倭に対して好意的であり、日本側からの樹木や特産物の輸出に対し、鉄器や鉄材を供給していました。ヤマト王権はその輸入に依拠して国内統治を進めていましたので、鉄の安定的供給のため、半島に足場を…

神道が仏教から分離したとありましたが、神道の八百万の神は、神祇信仰と大乗仏教の利他行が繋がった結果なのでしょうか?

神道が仏教から分離したわけではありません。神祇信仰が仏教から刺激を受け、その他中国思想の影響も被りながら、自身を神道として体系化していったのです。八百万の神々は、『古事記』『書紀』の段階から成立していますので、仏教と関わり合って生まれたわ…

崇仏論争は漢籍からの引き写しとのことですが、そのアイディアを持ってきたのは誰でしょう。遣隋使でしょうか、渡来人でしょうか? 時代的には渡来人と思えますが…。

述作された時期が問題で、普通に考えれば、まず疑わねばならないのは『日本書紀』の編纂時期です。つまり、8世紀の初頭ということになります。『書紀』の編纂過程は次第に明らかにされつつあり、各巻ごとに、7世紀末〜8世紀初までの時期が推測されていま…

古代の人々は自害に対してどのような認識を持っていたのでしょう。当時もやはり腹を切ったのですか。

割腹はしませんね。当時は首を吊るか、あるいは頸動脈を切っているようです。

単純なことかも知れないのですが、なぜ『天皇記』『国記』を聖徳太子が編纂したようにしなければならなかったのでしょうか。

『日本書紀』は、『天皇記』『国記』だけではなく、推古朝の重要政策のほぼすべてを、聖徳太子が蘇我馬子と共同で推進したとしているのです。『天皇記』などの記述と同様に、「皇太子」という当時はなかった身分の字句が挿入され、記事が作られています。当…

聖徳太子の他に、ナショナリズムと結びつけられる歴史上の人物はいるでしょうか。

聖徳太子ほどに、あらゆる局面で時空を超えて利用される人物はいないかもしれません。しかし知名度のある偉人ならば、近接した時代情況のなかでさまざまに利用され、消費されています。例えば坂本龍馬ですが、日露戦争の折に昭憲皇后の枕元に立ち、日本の勝…

聖徳太子の「聖人化」は、当初から政治利用の目的のために行われてきたとみてよいのでしょうか。他の理由はないのでしょうか。

「政治」をどう考えるかにもよりますが、例えばフーコーなど現代思想の文脈で考えた場合、人間の生の文脈はすべて「政治」で表現できるので、聖徳太子の聖人化のすべてが政治利用だということになるでしょう。ちょっと分かりにくいですが、具体的には、聖人…