2016-11-01から1ヶ月間の記事一覧
「天皇記」「国記」が蘇我馬子主導で編纂されたとすれば、そこには、事実上蘇我氏を中心にした歴史が書かれていたと思われます。それをクーデター勢力に利用されれば、蘇我氏を貶める格好の材料になる。蝦夷はそのことを懸念し、葬り去ろうとしたのでしょう…
『日本書紀』のなかには、「聖徳太子」と蘇我馬子が仲違いをしているという記述はありません。むしろ『書紀』の記述は、「太子、島大臣」と連結して記すことが多いので、共同して事に当たっているとの印象操作をしています。厩戸の夫人、長子である山背大兄…
授業でもお話ししましたが、『日本書紀』の編纂を始めた天武朝〜奈良王朝は、一応は、乙巳の変により蘇我本宗家から政権を奪取した改新政府(孝徳〜天智朝)の正当性を引き継ぐものでした。それゆえに、乙巳の変を単なるクーデターとして歴史化することはで…
皇太子は、持統朝の浄御原令制か、もしくは大宝令制によって規定されたと考えられています。持統天皇は、以降の皇位継承を、天武天皇と自分との間に生まれた草壁の皇統によって継承させようと考えました。それは、天武王権が天智の子大友王子からのクーデタ…
このあいだの授業でも触れましたが、皆さんの抱いた疑問は、かつて〈抹殺史学〉の権化であった久米邦武も共有し、これは中国に入ったネストリウス派のキリスト教=大秦景教の影響とみて、『書紀』を批判する論文を書いています。その可能性はないわけではな…
戦前、すでに津田左右吉が、『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』などで『日本書紀』の史料性を批判的に検討し、「聖徳太子」の存在に疑義を呈しています。しかし1939年、そうした一連の研究が不敬罪に…
山田史三方ががというより、その前任者である続守言・薩弘恪の作業が、中途で断絶してしまったことが原因と考えられています。彼らはそれぞれ、ヤマト王権の画期である雄略朝以降の編纂、古代国家において最も重要だった大化の改新に関わる皇極朝以降の編纂…
「日本」という国号が設定され東アジア世界に示されたのは、一般に、大宝2年(702)の遣唐使派遣においてだと考えられています。それ以前は、国内では自国をヤマトと呼んでいたと考えられますが、東アジア世界においてこれに付与された文字が「倭」であった…
『古事記』には、『書紀』のような中国的装飾は希薄です。文章の形式も主に変体漢文で、ヤマト言葉を一音表記した部分もあります。また、『書紀』は宮廷や氏族の神話伝承を一本化できず、「一書に曰く」を列挙して多くの異伝を示す形式になっていますが、『…
校訂作業が充分に行われていない時代では、やはり書写したひと、所蔵している家が高位なほうが、写本のレベルも高いと認識されていました。しかし校訂作業が開始されるようになると、その価値付けは次第に、古さと正確さから判断されるようになってゆきます…
例えば、奈良時代の国家的な写経事業のように、巨大な組織のなかで書写作業が行われる場合、校閲も厳密になされてゆきます。しかし、平安以降は個人的な書写作業が多くなってゆき、なかには専門家が校閲しているのに誤っている場合、校閲も行われない場合が…
そのとおりです。ただし、教科書や史料集によって依拠する校訂テクストが異なるので、比べてみると微妙に文字や表現が違っていたりします。学問レベルにおいては、史料を掲出する場合、いかなる校訂テクストに依拠したのかを明記しなければならないのですが…
どうぞ、嫌いになってください。間違ったものを愛するより、正しいことを知って嫌いになったほうがよい。他人に迷惑がかかりませんからね。そうして、なぜ自分が「嫌いだ」と思ったのか、じっくり考えてみてください。そこがいちばん重要です。
それは、受講生の皆さんひとりひとりに、きちんと考えて、答えを出してもらいたいですね。あなたが考えていることも立派な歴史教育の目的だと思いますが、要するに歴史から教訓を得ようとする現在主義は、過去を現在のために利用する側面が、どうしても強く…
今年の、リオ・オリンピックにおける日本の報道は酷かったですね。かつては、より多くの国々の活躍を丁寧に報じていた。各国の選手に対する敬意、礼儀がしっかりありました。いまは、自国の選手を応援するばかりで、醜いなあと思います。ぼくは個人的には、…
難しいですね。もちろんぼく自身にも、国民国家の先にある「必要なシステム」はみえてはいません。しかし、あらゆる人間集団にとって、可能な限り公正な状態を保持できるシステムを模索してゆく必要はあります。資本主義がその仕組み自体に格差を拡大し続け…
政治史・国家史が重視されるという意味では、そうなのでしょうね。社会史的歴史叙述は、多様性を強調することで、逆に国民統合を阻害する怖れがあるのです。
ぼくの行っている研究では、すべてが有機的に関連しています。そもそも世界は繋がっており、単独で生起する事象などないわけですから、あるひとつのことを明らかにしようと思えば、より広くより深い視野を醸成することが、対象を正確に捉える結果に繋がるの…
アナールは、当時人類学的な要素を多く持っていた、デュルケーム社会学の影響を受けて生まれました。その後も、社会学や文化人類学とは連携を欠かさず、なかには「歴史人類学」を標榜する人もいます。「歴史と民族史は違う」というのはどういうことか分から…
これまでの歴史学が、国家の変転において重要な事件を主要な対象に叙述してきたのに対し、それら事件を生み出す日常自体に価値を見出すということです。つまり、日常性のなかで、人々が何をどう感じ、考え、行動しているか。それにも時代時代で相違があって…
クリサート・ユクスキュルの『生物からみた世界』に使用される部屋の譬喩は、多くの生物の所与の機能によって分節された世界、すなわち環境を意味しています。ゆえに、空間の諸要素を選択するというより、生物によって構築する世界=環境が異なるといった方…
近代国家は、国民の信教の自由を侵犯しないため、祭政分離が原則とされています。よって現在では、分離している国の方が多いでしょう。しかし一般的には、部族社会の首長なり、王権なりは、時代的に古ければ古いほど、世俗的権力/宗教的権威を併有していた…
もちろんですが、より正確なことをいうと、『アナール』に集った歴史学者たち自身は、自分たちのことを「学派」とは捉えていません。あくまで、他の歴史学者や、隣接する分野の研究者たちがそう呼称したことに由来しています。「学派」というと共通の方法論…
子供が古代から現代に到るまでどのようにみられてきたかという、『子供の誕生』という書物も、アナールの歴史家 フィリップ・アリエスの著作にあります。それによれば、確かに中世には子供という概念がなく、7歳前後に言語コミュニケーションが可能になると…
アナールではありませんね。ミクロストーリアはむしろアナールに触発され、また対抗して、1970年代頃にイタリアで始まりました。ジョヴァンニ・レーヴィやカルロ・ギンズブルグが代表的な歴史家です。唯物史観が扱ってきたような、普遍理論に基づく巨視的な…
言語論的転回の歴史学批判は、主に実証主義的な歴史認識、叙述のあり方に対して向けられました。社会史もそれらを批判していたわけですが、その全盛期は社会史研究者が歴史学界を代表していたようなところもあり、また隣接諸科学との協働も進めていたので、…
「暴走」をどういう意味で使用しているのか分からないのですが、「倫理的配慮が行き過ぎる」という意味なら、ぼくはそうは思いません。確かに価値観の多様化により、さまざまな倫理的根拠は入り乱れており、トランプ以降のアメリカと同じく社会的分断が進ん…
パブリック・ヒストリーは、そうした概念でも活動でもありません。すでに世界では幾つかの実践例がありますが、例えば、ある河川の水産資源をめぐるファースト・ピープルズ(先住民=狩猟採集民)と白人地域住民、自然保護団体、行政関係者、研究者をめぐる…
上でも述べましたが、それが近代国家のひとつの条件であるためです。しかし日本という国家が奇妙なのは、象徴天皇制が存在することによって、やはり国家権力が宗教的権威によって補完されていることです。また靖国神社のように、一般宗教法人であるはずの一…