2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧
古墳時代のところでも勉強しましたが、これは辟邪ですね。基本的には中国の建築様式を踏襲したものですので、中国の塗装の仕方に淵源します。宮廷や寺社などの内部を西域とし、邪なものが侵入してこないよう防ぐ効果が期待されています。
なぜ王名がカナ表記になっているかというと、『古事記』『日本書紀』で用いている漢字が異なるためです。大王・天皇の場合、漢風諡号であれば、奈良時代半ばに一括して撰上されたものなので、1字1字に固有の意味を付した統一的な表記が採られています。し…
まずは、中国の儒教経典・史書・類書等々の漢籍、仏典に似たような文言がないかどうか調査し、記事の自律性(他書からの援用によって成り立った文章ではないこと)を確認します。また、前後の政治・社会情況からみて自分の扱うくだりに不自然さはないか、作…
最初の時間にお渡しした、崇仏論争などがそうですね。私は、日本仏教が中国仏教と同じプロセスを経て隆盛に至ったことを主張する内容と考えています。プリントを確認してみてください。
『日本書紀』が国家の正史として正統的位置づけを受けており、古代においては、『古事記』はその参考書程度の価値しか認められていませんでした。後者が現在のように広く知られるようになったのは、国学が漢字文化の影響を排した原日本の姿を『古事記』に認…
『日本書紀』自体が舶載されたとの記録は残っていません。しかし、同書は成立当初から律令官人の基礎知識とされ、紀伝道(史学科)の博士による講義が行われています。律令国家のアイデンティティとして共有を図ったことがうかがえます。しかし、遣唐使など…
これは根本的な問題ですね。私が解答を出してしまうより、皆さんがぜひ考えてみてください。
『日本書紀』の記述ではそうなっていますが、実際には、ヤマト地域との間に大きな政治的確執があったということでしょう。ヤマトの大王家に大きな力がなくなっていたとすれば、それを代表していたのは大伴・物部といった側近や葛城氏系の豪族たちであったと…
継体天皇即位の背景には、息長氏という近江(滋賀県)の有力豪族が存在したと考えられています。息長真手王から敏達、舒明、中大兄に至るラインは息長系なので、蘇我氏を含む葛城氏系と大王の姻戚を競った勢力と考えられます。継体以前の動向は不明ですが、…
やはり王権の構成員として一定の責任を果たしてゆくのを、支配者層全員が監督してゆくというあり方でしょう(研修期間とでもいうべきでしょうか)。その過程で補佐として付く豪族などが、即位後の権力基盤を形成してゆく。王子宮の運営から王位継承へ展開す…
構いません。でも、結構難しいと思いますよ。
日本古代のそれの源である中国の秩序では、帝は神よりポジションが上なのです。殷代の解説でも少し触れましたが、殷王朝の至上神は上帝で、その至尊さは人間の理解を超えており、一切のコミュニケーションを拒絶する存在でした。これが周王朝以降に「天帝」…
春秋〜戦国期の五行占は本当に初発の時期のものですので、後世のものに比べて極めて単純です。後世には、万物の五行配当が複雑化・多様化していったり、相生・相克の説明付け自体も容易には解明できないものとなってゆきますが、史料19に挙げたようなものは、
最後から2回目の講義で『詩経』を扱いましたが、仰るとおり、巷間では様々な俗信的方法で占夢が試みられていました。しかし、その大部分は個人や家、氏族に関する事柄であって、国や王権の存亡に関わる重大事ではなかったので、大きな問題は生じなかったと…
子産は、公孫僑との諱からも分かるとおり、鄭国の宗族(君主の一族)でした。子産の父親が鄭公の子(公子)、彼はその子すなわち鄭公の孫(公孫)に当たるわけです。ゆえに、史官や卜官の一族ではありませんでした。しかしその家柄から、当時の卿・大夫らが…
もちろん、史料的にどこまで正確な書き方をしているのか、細大漏らさず描いた網羅的な記録なのか、という問題は常にあります。ゆえに、情況に応じて具体的な占夢のあり方は異なるでしょうが、文献を参照したらしい痕跡がある以上、通常の亀卜や易筮と同じく…
これまでみてきた殷代の亀卜・骨卜や易筮と同様、解釈の仕方を変えることによって「よりよい未来を選択する」という考え方が貫徹しているのでしょう。甲骨に生じたひび割れ=卜兆や易の六十四卦自体も重要ですが、本当の問題はそれをどう読み解くかにあるわ…
下でも触れますが、占夢の方法自体は巷間にも知られたものがあり、春秋・戦国期には、必ずしも占夢官のみが独占する状態にはなっていないものと思います。ただし『晏子春秋』に記録されたそれは陰陽説を応用していますので、やはり当時としては専門的な占夢…
漢代初期の律令には占夢官の独立した試験規定はみえませんし、漢代に占夢官が独立した官職として存在したかどうかも分かりません。『周礼』では占夢官も卜官のカテゴリーに含まれますので、「二年律令」でみた卜官の入試が、そのまま占夢官の入試でもあると…
基本的に、『左氏伝』や『国語』は史官の倫理=天の秩序と考えているので、君主/史官=卜官の対立が生じた際に、君主側が正当であると叙述する場合は少ないだろうと思います。史官=卜官は天の声を代弁しているのであり、それに逆らうのは天に弓引くことと…
例えば、日本古代の天皇が朝廷において政治を執ることを「聴政」といい、何らかの申請があった際に許可を出すことを、「聴」と書いて「ユルす」と訓みます。これは、群臣たちの様々な意見をよく聞いて、自らが最終的な判断を下すためです。すなわち、政治と…
当然、後に『孝経』や『礼記』にまとめられることになる倫理・道徳規範も、卜占の際の重要な参考基準でした。卜官=史官が管理する神話=歴史において、「どのように行動すべきか」はむしろ自明です。彼らはその点を前提にしながら占断を下しているのであり…
講義でも触れたように、もちろん、そうした側面は大きいように思います。彼らは卜兆や卦の結果を読み解き、占断を下しつつ、君主の心を解きほぐして道徳=倫理に沿わせようとしているのです。春秋戦国期において、後の軍師や宰相の担う役割の一部は、少なく…
武器が破邪の力を持つと考えられたことはすでに何度も話しましたが、まず中国戦国末の古典『礼記』に、神聖な樹木である桃で造った弓、同じく蓬で造った矢などが、破邪の武器として登場するのです。中国の出土文字文献には、戦国末のゴーストハントについて…
あまり入門書的なものはないのですが、江戸時代における伊勢の式年遷宮を絵画的に記録した文献が、『神宮遷宮記』第7巻図録編(175.8:J523:1992:v.7)に収録されています。木鎮め祭儀についても描かれている場面がありますので、参考にはなるかと思います。…
これは奈良時代のテーマですが、最も大きな要因は、中国と対等に付き合うべく中国的都城を建築したつもりで、意気揚々と大宝の遣唐使を派遣したところ、現実の中国都城が藤原京とはまったく異なるという事態が発覚したためです。遣唐使の帰国後も、しばらく…
「藤原京」という名称に関しては、実は、当時の正史であった『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てこない名称なのです。『書紀』では「新益京」という表現を用い、天武の「新城」建設事業を引き継ぎ、飛鳥に対して新しく付け加えた都城と位置づけられていた…
一応は都ですので、全国から物資が集積される流通の中心ですから、食糧事情は悪くなかったはずです。排水施設についても、縦横に水路が巡っていましたので、貴族邸宅などでは水洗のトイレも設置されていました。ただし、これは平城京や平安京においてもいえ…
これは、前代の飛鳥京までヤマト王権の中華思想的空間表現であった、「王宮の位置する場所こそが世界の中心である」という考え方が持続した結果でしょう。飛鳥では上記の発想のもと、須弥山像や世界樹としての斎槻が立てられました。飛鳥地域の地理的環境を…
藤原京の建設に際しては、その5年前に頒下された飛鳥浄御原令が重要です。律令国家の建設へ向けて、都城の整備・律令の編纂は並行して進められてきましたので、度量衡から宅地班給の規定まで、基本となる諸制度は完成していたと思われます。しかし、藤原京の…