超域史・隣接学概説III(17春)
うーん、春学期この講義を行っていちばん受講生に身に付けてほしかったもの、自身の価値観を相対化・客観化する態度・能力をあなたが手に入れられなかったのは、ぼくの力不足のせいというべきでしょう。これからあなたがしっかり勉強して、このリアクション…
どこのゼミでも、学生さんからの要望があれば、きちんと応えてくれるはずです。それほど頭の固い教員ばかりではありません。
まずは、変えるために何ができるか考え、ひとつひとつ実践してゆくことが必要でしょうね。
耳が痛いですね。しかし、それを「主義」にするかどうかは別として、実証が学問の基本であることは確かです。大学の学士課程では、まずはその実証をきちんとできるようにする、その訓練が大切なのです。またこの授業のように、たくさんの情報は発信されてい…
誤解があるかもしれないのは、主観とは我が儘勝手、何を考えても云ってもよいということではありません。個別の主体のものの見方・感じ方を指しますが、これを可能な限り客観的なものへ近づけてゆこうとするのが、とりあえずは学問の基本的態度というもので…
理論だけを追いかけてゆくと次第に議論は単純化してしまい、袋小路に至りがちになってしまいます。理論は常に、現実のデータの収集・分析と対になっていなくてはいけません。何がいいたいかというと、答えは過去の厖大なテクストとの格闘のなかにあるという…
授業でも扱いましたが、一般的には、a)歴史叙述は物語りであるが単なる虚構ではないこと、b)歴史学には反証可能性があり学問としての体裁を持つこと、などが定説的〈反論〉でしょう。しかしこれらは、結局、言語論的転回が問題にした「言語の世界構成機能…
ラカプラの批判は、歴史叙述の物語り性に対する、歴史学者自身の無自覚に向けられています。つまり、歴史叙述を文章による過去の再構成であると無自覚に考え、それゆえに事実性ばかりを当たり前のように主張して、本来多様なはずの過去が言語によって分節さ…
確かに、他者との理解を完全に達成することはありえません。しかし、他者が理解しえないがゆえに他者なのだと考えれば、それは当然のことといえます。もし他者を完全に理解できたとすれば、論理的にはそれは同一化・一体化以外にはありえず、その時点で他者…
高名な哲学者や思想家が長年議論し続けている問題ですので、そう簡単に答えは出ません。とにかく、言葉に対してもっと敏感になること、周到な注意を要することだけは、しっかり自覚的に行った方がよさそうです。個人的には、もし世界が言葉によって構築され…
自然科学、社会科学、人文科学の各学界が、垣根を越えてしっかり団結することが大事なのだろうと思います。しかし現実には、諸科学の分野によって、国から多くの補助金を受け、それで研究が成り立っているところもあるので、なかなか難しい。補助金問題は、…
復習してほしいのですが、物語りとは、イコール・フィクションではありません。上にも述べましたが、例えば新聞記事も主観的な物語りであって、言葉が介在する限り、あらゆる「事実」と呼ばれるものもすべて物語り性を持つのです。それゆえに、それらが事実…
両論併記について、はっきりしないものは報道するな、とは一言もいっていません。検証せよ、といっているのです。近年の日本のジャーナリズムの大きな問題は、情報のソースからその正確さ、内容の事実性などを検証する努力を、どんどん怠りつつある点です。…
保苅は、ポストモダンの先へ行こうとしたわけです。ポストモダンの潮流は、近代学問の問題性をあぶり出したけれども、結局は学問同士、また学問と社会との間に分断と軋轢を生み出してしまった。それを新しい形で結び直すにはどうするか。自分を科学的、公明…
もちろんそのとおりですね。自分の政治性、恣意性を厳しくみつめ、相対化し、可能な限り客観性を目指すことは必要です。しかし、それにはやはり限界がある。大切なことは、そうした思考過程を科学の名で隠蔽せず、しっかりと公開することです。手練手管を明…
目の前にあるモノをそのまま存在するとする考え方のことです。素朴実証主義も似たようなもので、史料を通じて過去の事実が明らかになると考える立場のことです。
即自的、あるいは超越論的などと訳します。つまり、議論するべくもない、当たり前のものとして決まっている意味、ということです。
自分という存在にコピーがないように、自分のものの見方、考え方も、他の誰かとまったく一緒ということはありえません。これから研究を真摯に続けてゆくなかで、きっと、あなたにしか分からないもの、気づかないものが発見できるはずです。それこそが、歴史…
一切ありません。これまで一度も、そんなことで評価を落としたことはありません。
そういうことになりますね。典型的なのが教科書です。そこに書かれている内容は、誰かの学説に過ぎない、さらには仮説に過ぎないものなのに、あたかも変更のされようがない厳然とした事実のように断定されている。ナショナル・ヒストリーを提供する教科書に…
そのとおりですね。ダントーがいいたかったことも、まさにそこにあるはずです。つまり、あらゆることを起きた直後に記録する「理想的年代記」は、たとえそれが可能になったとしても、単なる記録であって「歴史叙述」にはならない。歴史叙述の本質は、後世の…
歴史学はその歴史が古い分だけ、例えばヨーロッパの学問のなかでも、アジアの学問のなかでも、存在することが自明とされてきました。国家にとって必要な知を供与するものであり、その社会的地位も高かったわけです。近代学問化においても、そのあり方は基本…
社会史の泰斗であるコルバンが上のように発言したことは、たぶん多くの人々にとって衝撃であったと思います。ブロックやフェーヴルが生きていたら、彼を叱りつけたことでしょう。しかし経験主義が極致に達すると、ある種の達観として、そのような認識枠組み…
確かに、そこには重大な自己矛盾があります。実証主義は、例えば史料批判における真偽判断を、歴史学者の「経験」に委ねます。その背景には、歴史学者の知と方法が、充分に訓練され信頼のおけるものだという自負が含まれており、実際その場合も多いのですが…
ホロコースト否定論者は、概ねナチスに対する賛同者か、ユダヤ人差別主義者です。すなわち彼らの目的は、ナチスの正当性を訴えること、ユダヤ人を批判し冒瀆することです。彼らは議論を通じて、自らの政治思想が世界に広まることを目的としているのです。
ポストモダニズムは、簡単にいえば近代批判です。近代特有のものの考え方を批判するという意味ですが、民族差別を近代固有のものとすれば、それを批判し解体しようとする動きはポストモダニズムということになります。ただし実際は、民族差別は近代固有では…
当時の人々を日常的に規制していた主従関係、土地を介した隷属関係などから、切断された空間、もしくは人という意味ですね。寺院や神社に付随した場だけではなく、例えば浮浪の芸能者、遊女などもさして公界衆などという場合もありました。また例えば、織田…
野家啓一さんが責任編集の、『岩波 新・哲学講義』8/歴史と終末論(岩波書店、1998年)が、ちょっともう古いですが、コラムも充実していて分かりやすいかと思います。同書の「講義」に当たる箇所は、やがて野家『歴史を哲学する』(岩波書店、2007年)とし…
フランスはドレフュス事件以降、知識人の政治への介入が目立ちますが、サルトル自身は、第二次大戦へ召集された経験から政治への関心を強め、社会や政治の動きに相対し、進んで実践しよりよい情況を求めてゆくことに努めました。アルジェリア独立戦争では自…
日本だけではなく、この頃の現代思想はフランス全盛期だったのですよ。近代からパリは芸術文化の中心というモードはあったのですが、先後に至って、実存主義のサルトル、ヴォーヴォワール、構造主義のレヴィ=ストロース、フーコー、アルチュセール、バルト…