超域史・隣接学概説III(17春)

南京事件など、未だに問題になるのはなぜなのか。自虐史観にはうんざりする。慰安婦に謝罪するなど、プロパガンダに踊らされたバカのすることだ。

うーん、春学期この講義を行っていちばん受講生に身に付けてほしかったもの、自身の価値観を相対化・客観化する態度・能力をあなたが手に入れられなかったのは、ぼくの力不足のせいというべきでしょう。これからあなたがしっかり勉強して、このリアクション…

上智のゼミで、史料と方法論を教えてくれるゼミはどこですか?

どこのゼミでも、学生さんからの要望があれば、きちんと応えてくれるはずです。それほど頭の固い教員ばかりではありません。

論文などの、結果重視の日本社会は、なかなか変えられない部分でもあると思います。こうした体制を崩すことはできないのでしょうか。

まずは、変えるために何ができるか考え、ひとつひとつ実践してゆくことが必要でしょうね。

現代歴史学の理想論と、上智の史学科で教わる歴史学はずいぶん離れていると感じます。実証主義の方法しか教わっていないので、理論的・方法論的多様性はないと思います。 / 実証主義世代の教授陣から教わっても、我々もまた同じことを下の世代に伝えてしまうことになるのではないか。

耳が痛いですね。しかし、それを「主義」にするかどうかは別として、実証が学問の基本であることは確かです。大学の学士課程では、まずはその実証をきちんとできるようにする、その訓練が大切なのです。またこの授業のように、たくさんの情報は発信されてい…

ピーター・ゲイの、〈歪み〉を含んだ主観が歴史の多様性を実現しうるという考えは納得できますが、歴史を考えるうえでどこまでその〈歪み〉を認めるかという線引きは必要だと思いました。 / 主観という歪みが過去のある局面を明らかにすることもあるという話だったが、「正しい」主観と「間違った」主観とは、一体何なのだろうか。

誤解があるかもしれないのは、主観とは我が儘勝手、何を考えても云ってもよいということではありません。個別の主体のものの見方・感じ方を指しますが、これを可能な限り客観的なものへ近づけてゆこうとするのが、とりあえずは学問の基本的態度というもので…

言語は、スピーゲルのいうように過去と現在の我々を繋げてくれる道具だが、現在の解釈と過去の意図が違ってきた場合、どのように過去に近づけてゆけばよいのか。

理論だけを追いかけてゆくと次第に議論は単純化してしまい、袋小路に至りがちになってしまいます。理論は常に、現実のデータの収集・分析と対になっていなくてはいけません。何がいいたいかというと、答えは過去の厖大なテクストとの格闘のなかにあるという…

言語論的転回の歴史学批判に対して、さまざまな学者からの回答・反論を紹介して下さいましたが、それらのうち、一般の歴史学者から最も支持されている有力な見解はどれなのでしょう。

授業でも扱いましたが、一般的には、a)歴史叙述は物語りであるが単なる虚構ではないこと、b)歴史学には反証可能性があり学問としての体裁を持つこと、などが定説的〈反論〉でしょう。しかしこれらは、結局、言語論的転回が問題にした「言語の世界構成機能…

ラカプラは、〈歴史叙述=記述的な過去の再構成〉という見方について、「現実を再現=表象しようとする際の虚構に無自覚で、最も常套的な物語構造に依存している」点を批判したとのことですが、彼はこのようなあり方をまったく否定したのでしょうか。

ラカプラの批判は、歴史叙述の物語り性に対する、歴史学者自身の無自覚に向けられています。つまり、歴史叙述を文章による過去の再構成であると無自覚に考え、それゆえに事実性ばかりを当たり前のように主張して、本来多様なはずの過去が言語によって分節さ…

この世界は常に言葉によって規定されている、ということは、私もときどき考えます。結局、いま、思考している私は私が認識した世界に基づいて思考している以上、他者とわかりあえないのではないだろうか、と思うのですが、歴史学と直接関係ないかもしれませんが、先生の考えを伺いたいです。

確かに、他者との理解を完全に達成することはありえません。しかし、他者が理解しえないがゆえに他者なのだと考えれば、それは当然のことといえます。もし他者を完全に理解できたとすれば、論理的にはそれは同一化・一体化以外にはありえず、その時点で他者…

現前する世界は実体ではなく、観る者によって違うという話を聞いてから、自分のいる世界はいったい何なのかという、よく分からない疑問でいっぱいになってしまい、そのなかで歴史を使うということが結局どういうことなのか、こんがらかってよく分からなくなってしまいました。

高名な哲学者や思想家が長年議論し続けている問題ですので、そう簡単に答えは出ません。とにかく、言葉に対してもっと敏感になること、周到な注意を要することだけは、しっかり自覚的に行った方がよさそうです。個人的には、もし世界が言葉によって構築され…

吉見裁判の件、歴史学の専門家ではない政治家によって、研究の成果が云々されることに疑問を感じました。結局、学者は権力の前では無力なのでしょうか。どうにか権力に立ち向かえるようにならないでしょうか。

自然科学、社会科学、人文科学の各学界が、垣根を越えてしっかり団結することが大事なのだろうと思います。しかし現実には、諸科学の分野によって、国から多くの補助金を受け、それで研究が成り立っているところもあるので、なかなか難しい。補助金問題は、…

物語り性こそが歴史学の本質ならば、事実を知ることは不可能なのでしょうか。歴史学は事実を知ることが基本、と考えるのは間違っているのですか。

復習してほしいのですが、物語りとは、イコール・フィクションではありません。上にも述べましたが、例えば新聞記事も主観的な物語りであって、言葉が介在する限り、あらゆる「事実」と呼ばれるものもすべて物語り性を持つのです。それゆえに、それらが事実…

両論併記の問題性については分かりましたが、それをジャーナリズムに求めるのはどうなのでしょうか。白黒はっきりしていないないようだからといって、報道を自粛してしまうのは、かえって中立性を損なう可能性もあります。

両論併記について、はっきりしないものは報道するな、とは一言もいっていません。検証せよ、といっているのです。近年の日本のジャーナリズムの大きな問題は、情報のソースからその正確さ、内容の事実性などを検証する努力を、どんどん怠りつつある点です。…

ポストモダン的傾向と、保苅が目指した方向とは同じものだったのでしょうか。

保苅は、ポストモダンの先へ行こうとしたわけです。ポストモダンの潮流は、近代学問の問題性をあぶり出したけれども、結局は学問同士、また学問と社会との間に分断と軋轢を生み出してしまった。それを新しい形で結び直すにはどうするか。自分を科学的、公明…

歴史学の課題として、ものごとはなるべく客観的にみなければならないということは必要と思いますが、先生の思う一番の方法とは何でしょうか。

もちろんそのとおりですね。自分の政治性、恣意性を厳しくみつめ、相対化し、可能な限り客観性を目指すことは必要です。しかし、それにはやはり限界がある。大切なことは、そうした思考過程を科学の名で隠蔽せず、しっかりと公開することです。手練手管を明…

「素朴実在論」とは何でしょうか。

目の前にあるモノをそのまま存在するとする考え方のことです。素朴実証主義も似たようなもので、史料を通じて過去の事実が明らかになると考える立場のことです。

「アプリオリ」とはどのようなことですか。

即自的、あるいは超越論的などと訳します。つまり、議論するべくもない、当たり前のものとして決まっている意味、ということです。

私は、レポートに「私は〜だと思う・考える」と必ず入れて書いているのですが、自分で考えて述べた意見は、すでに多くの歴史学者が考え出している場合が多いです。私もこれまで読んできたものが先入観となっているため、「私は……」と述べても、結果的には自分の本当の意見が出せなくなっています。

自分という存在にコピーがないように、自分のものの見方、考え方も、他の誰かとまったく一緒ということはありえません。これから研究を真摯に続けてゆくなかで、きっと、あなたにしか分からないもの、気づかないものが発見できるはずです。それこそが、歴史…

北條先生は、レポートに「私」「思う」などと書いても、それを原因に評価を下げるということはありませんか?

一切ありません。これまで一度も、そんなことで評価を落としたことはありません。

「私」「思う」「考える」という言葉を避け、主観性を隠蔽しているということは、実際は主観性が入っていることを黙認していることになるのではないかでしょうか。

そういうことになりますね。典型的なのが教科書です。そこに書かれている内容は、誰かの学説に過ぎない、さらには仮説に過ぎないものなのに、あたかも変更のされようがない厳然とした事実のように断定されている。ナショナル・ヒストリーを提供する教科書に…

理想的年代記は、やがてAIによって可能になるかもしれませんが、それが歴史といえるのかどうか分からなくなりました。

そのとおりですね。ダントーがいいたかったことも、まさにそこにあるはずです。つまり、あらゆることを起きた直後に記録する「理想的年代記」は、たとえそれが可能になったとしても、単なる記録であって「歴史叙述」にはならない。歴史叙述の本質は、後世の…

歴史学以外の学問は、歴史学よりも科学認識論的な基礎付けがあったといえるのだろうか。

歴史学はその歴史が古い分だけ、例えばヨーロッパの学問のなかでも、アジアの学問のなかでも、存在することが自明とされてきました。国家にとって必要な知を供与するものであり、その社会的地位も高かったわけです。近代学問化においても、そのあり方は基本…

コルバンが、「真っ白な心で受け容れる」などといっているのは無理なことだと思うのですが、どうしてこのようにいう人、考える人がいるのでしょうか。また、「エピステモロジカル」な視点はどうすれば身に付くのですか。

社会史の泰斗であるコルバンが上のように発言したことは、たぶん多くの人々にとって衝撃であったと思います。ブロックやフェーヴルが生きていたら、彼を叱りつけたことでしょう。しかし経験主義が極致に達すると、ある種の達観として、そのような認識枠組み…

実証主義の認識論が経験主義であることについて、客観性を求める実証主義がなぜ経験主義なのか、よく分かりませんでした。

確かに、そこには重大な自己矛盾があります。実証主義は、例えば史料批判における真偽判断を、歴史学者の「経験」に委ねます。その背景には、歴史学者の知と方法が、充分に訓練され信頼のおけるものだという自負が含まれており、実際その場合も多いのですが…

アーヴィングは、ホロコースト否定論を喧伝すること自体に価値を見出していた、と聞きました。では、彼はこれを喧伝することで、社会に何を伝えたかったのですか?

ホロコースト否定論者は、概ねナチスに対する賛同者か、ユダヤ人差別主義者です。すなわち彼らの目的は、ナチスの正当性を訴えること、ユダヤ人を批判し冒瀆することです。彼らは議論を通じて、自らの政治思想が世界に広まることを目的としているのです。

博物館レポートについて質問ですが、民族、例えばアイヌ文化のようなものを大切にし、守り、肯定する動きは、ポストモダニズムでしょうか。

ポストモダニズムは、簡単にいえば近代批判です。近代特有のものの考え方を批判するという意味ですが、民族差別を近代固有のものとすれば、それを批判し解体しようとする動きはポストモダニズムということになります。ただし実際は、民族差別は近代固有では…

無縁の世界とは、公権力のまったく及ばない所といった意味でしょうか。とすると、中世イタリアやドイツの都市の自由とは、また違ったものなのですか。

当時の人々を日常的に規制していた主従関係、土地を介した隷属関係などから、切断された空間、もしくは人という意味ですね。寺院や神社に付随した場だけではなく、例えば浮浪の芸能者、遊女などもさして公界衆などという場合もありました。また例えば、織田…

ヘイドン・ホワイトの本を気合いを入れて購入したものの、自分が今まで読んできた論文とはまったく違う文脈にあり、読みづらいです。歴史哲学系の入門書など、何か助けとなる本はありませんか?

野家啓一さんが責任編集の、『岩波 新・哲学講義』8/歴史と終末論(岩波書店、1998年)が、ちょっともう古いですが、コラムも充実していて分かりやすいかと思います。同書の「講義」に当たる箇所は、やがて野家『歴史を哲学する』(岩波書店、2007年)とし…

サルトルのアンガージュマンは文学の政治参加への呼びかけとのことですが、実存思想によって何か具体的な成果は出ているのでしょうか?

フランスはドレフュス事件以降、知識人の政治への介入が目立ちますが、サルトル自身は、第二次大戦へ召集された経験から政治への関心を強め、社会や政治の動きに相対し、進んで実践しよりよい情況を求めてゆくことに努めました。アルジェリア独立戦争では自…

フランスの現代思想が、70〜80年代、日本に大きな影響を与えていたと知り驚きました。日本とフランスの間での文化的交流は、他国に比べて活発だったのでしょうか。

日本だけではなく、この頃の現代思想はフランス全盛期だったのですよ。近代からパリは芸術文化の中心というモードはあったのですが、先後に至って、実存主義のサルトル、ヴォーヴォワール、構造主義のレヴィ=ストロース、フーコー、アルチュセール、バルト…