アジア・日本史系概説I(18春)
坊の塚古墳(岐阜県)の魚型土製品、モチ型土製品 ナガレ山古墳(奈良県)の供献物型土製品 上の写真は、岐阜県各務原市の坊の塚古墳(4世紀末)、下の写真は、奈良県北葛城郡のナガレ山古墳(5世紀前半頃)から出土した土製品で、供献型土製品と呼ばれま…
●自然環境との関係 →縄文〜平安期において、古墳時代を除き概ね温暖な時代。次第に王権・国家から一般階層へ、開発が大きく展開・寒冷化の時代 →苛酷な情況のなかで権力が集中、王権・国家の成立の契機へ(戦争、内乱)・温暖化の時代 →社会の下層に開発の気…
以前に特講で半年、この話をしたことがあります。『続日本紀』によると、天平7年の流行の原因は明確ではありませんが、被害が北九州の大宰府管内から始まっていること、遣唐使船帰朝後数ヶ月で大規模化していることなどからすると、やはり海外から持ち込ま…
福原栄太郎氏の研究によると、天平9年の大流行では、従五位下以上の京官の約4割弱が半年のうちに死亡しており、12月末の任官では16寮のうち9寮の長官が新任となっています。また、細井浩志氏の指摘によると、『続日本紀』中の天平10年〜天平勝宝8歳の期…
以前授業でお話ししたと思いますが、儒教では、礼に込められた社会秩序を一般社会に定着させてゆくためには、音曲によって人々の心を和す楽が必要だとする考え方がありました。これを礼楽思想といいます。日本では、大宝律令の制定によって、礼を構築するた…
前回の質問でもある程度は答えていますが、やや誤解があるようです。阿倍内親王=孝謙=称徳は、日本最初の女性天皇ではありません。大王としてはすでに推古、皇極=斉明がいましたし、天皇としても、持統、元明、元正が即位しています。最初であるのは「皇…
奈良時代の律令官制においては、後宮十二司という女性官僚の機構が整備されています。具体的には、後宮における天皇の日常生活に供奉する内侍司、神璽・関契など天皇御用の雑物を管理する蔵司、書籍・紙・筆・墨・楽器を扱う書司、医薬に関して供奉する薬司…
以前にも、縄文時代あたりでお話ししたと思いますが、満ち欠けを繰り返す月は死と再生、不老不死の象徴です。ゆえに、中国ではオタマジャクシから変態するヒキガエル、冬になっても枯れない竹などが、同じ不老不死、死と再生のカテゴリーに入れられ、月のな…
中世以降に比べて史料が少ないことは、やはり否定できません。ただし、それでも民衆生活の判明する史料はあるし、いろいろなことが分かってはいます。例えば、これは「庶民」とは呼べないかもしれませんが、東大寺の造営や種々の仏教事業に当たった造東大寺…
基本的に、平城京遺構の柱跡や出土瓦のほか、平安京の大極殿や朱雀門に関する絵巻等々の史資料や、法隆寺、薬師寺、東大寺、海龍王寺五重小塔などの前後の時代の建築、四天王寺、薬師寺、唐招提寺、難波宮などの出土品を参考に復元しています。よって、充分…
授業でもお話ししましたが、皇太子制度は天皇称号の使用とほぼ時を同じくし、草壁皇子の立太子に際して初めて使用されたと考えられます。前天皇が、後継者を予め一人に絞り、継承をめぐる紛争を可能な限り抑えようとする仕組みです。このあと孝謙に至るまで…
律令体制以前の『古事記』や『書紀』の記述では、天皇の子女は「皇」字を持つ「皇子」「皇女」と表記されています。しかし、天皇制成立前の段階では、『書紀』などに「皇子」の表記があっても、学術的推測によって「王」「女王」と書き直す場合があります。…
もちろん、まずは藤原不比等の子息であるという点が大きいでしょう。しかし、『藤氏家伝』のうち「武智麻呂伝」を読む限りは、彼は充分な実力を持っていたようです。授業でも述べましたが、彼は長屋王や弟の房前のように議政官として廟堂に登場するのではな…
各国の国司や郡司のもと、鉱山発見や採掘の知識・技術に明るい氏族が担ったものと考えられます。例えば殖産興業氏族の秦氏は、各地で銅や丹生(水銀)の生産に当たっていた可能性が指摘されており、例えば銅を採掘している豊前、丹生の地名がある越前・伊予…
不比等自身が草壁に接近したというより、天武もしくは持統によって、草壁のブレーンとして配置されたということでしょう。草壁のライバルともいうべき大津には、壱伎連博徳、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須らがブレーンとして奉仕していました。壱岐博徳は…
学術的な概念としては、2つは異なるものです。まず神話は、過去のある1点との関係において、現状の諸事象を説明するもの。例えば天照大神が皇孫ニニギに豊葦原中津国の支配を命じたことをもって、天皇統治の正当性・正統性を説明するようなものです。それ…
授業でもお話ししたとおり、古代においては、『古事記』は『日本書紀』を読むための参考書のひとつに過ぎませんでした。しかし近世の国学以降、中国に侵されていない純粋な日本を志向する立場から、中国正史の形式に倣い漢文で書かれた『書紀』より、ヤマト…
不比等と田辺史氏との関係については、『尊卑分脈』藤氏大祖伝/不比等伝に、「内大臣鎌足の第二子なり。一名は史。斉明天皇五年に生まる。公避くるところの事有りて、便ち山科の田辺史大隅等の家に養はる。其れを以て史と名づくるなり」と出てきます。「公…
この授業の冒頭でお話ししたように、現在、国際社会で「先進国」と位置づけられている日本と、少数民族の生活を比較したとき、われわれが常識的に「日本が発展している」と考えるのも、極めて限定されたものの見方に過ぎません。いま、着の身着のままの状態…
古代国家の意識としては、まずは中国王朝と同様の文化的体裁を手に入れることが、目的であったと思われます。律令を制定する以前の列島社会も、もちろんまったくの「無秩序」であったわけではありません。それぞれの共同体には、長年の間に培われてきた慣習…
授業でお話ししたとおり、「不改常典」がいかなるものなのかは、史料には明確に語られていません。しかし、元明以降の天皇が即位の際、それをあたかも天智の権威で正当化するかのように口に出すのです。奈良王朝の皇位継承のあり方と結びつけて考えれば、そ…
近親婚は、アジア地域に限らず、全世界に普遍的にみられます。王権との関係においては、やはりピュアイズム=純潔性堅持との関係が強いようですが、地域や民族における、時代ごとの個別の情況のなかで考える必要があります。一方で、近親婚がタブー視されて…
先日授業でもお話ししましたが、まず皇位継承法を定めた「不改常典」です。これは実態が不明ですが、「天武皇統」とされた人々によって、即位を正当化するために言及されます。大宝2年(702)には、天智の忌日も「国忌」として定められました。また、『懐風…
フレーザーの『金枝篇』が古典的名著ですが、王が神聖性を併せ持ち祭政一致の状態で統治をなすことは、古代社会、民族社会においては珍しいことではありませんでした。前にも同じように回答をしましたが、天皇は位についている間固有名詞を持たず、崩御によ…
難しいでしょうね。ただし、朝廷の命令は、一応は必要のあるものは里長まで伝達され、庶民へ口頭で説明されることになっていました。別のところでもお話ししたように、調といった租税は、被徴収者が直接都まで運搬してゆくことになっていました。その折に通…
飛鳥時代の死生観は、古墳時代のそれと大きな変化はありません。ただし宮廷社会とその周辺には、仏教的な浄土への往生を意図したような史料が散見されるようになります。この傾向は8世紀に至り、経典の願文にもみえるようになります。時代的には少々降りま…
もちろん、大王の系譜である「帝紀」をはじめ、宮廷に何らかの記録は残っていたと思われます。しかし、その系譜自体が信憑性に乏しいので、ある意味ではこの時期、系譜と陵墓が「創出」されたといっても過言ではないでしょう。とくに、雄略より前の大王たち…