2015-11-01から1ヶ月間の記事一覧

これまでは農業=自然=神だと安直に考えており、それらに回帰することが持続可能性なのだと思ってきたが、今までの講義を受けてきて、そうではないかもしれないと考えるようになった。だとすると持続可能性とは何なのか、よく分からなくなってしまった。先生のお考えをお聞きしたいです。

持続可能性自体の意味を問うことが、まず重要です。一般的にいわれる持続可能性とは、人間が現在の文明の水準を維持するために、自然環境をいかに破綻なく使用してゆくか、その「持続」を指示しています。すなわち、人間の利益に立った利己的なものでしかな…

ハイヌヴェレ神話には、3という数が象徴的に使われている気がしましたが、これはヴェマーレ族が3を神聖視していたからなのでしょうか。

3は、数学的には次元を確定する要素とされ、中国では紀元前の殷王朝の時代から、卜占で使われる聖数となっています。後に天・地・人を象徴するものと意味付けられ、それこそ天下を表す鼎が3b本足であるなど、多くの表現がみられます。しかしハイヌヴェレ神…

サンタル民話では7人の兄弟が出て来ますが、これは7という数に何らかの宗教的な意味があるのでしょうか。

仏教では8という数字が、悟りを象徴するものと考えられ、例えばブッダ入滅後の救世主である弥勒菩薩が出現するのは、「56億7千万年後」、すなわち5→6→7→8=出現といったあり方で語られます。もともとは、方向を意味した聖数の基本である4が、さらに細…

サンタル民話に出てくる「やめて、やめて!」のフレーズは、結婚をするときの問答のようだと思いました。サンタルの人々は、実際にこういうやり取りをしてから結婚しているのではありませんか。

そうかもしれません。中国西南の少数民族では、結婚相手を選ぶ際の歌垣、結婚式などでも、男女の掛け合いの歌が、性的表現や笑いを交えて行われますね。そのあたりのサンタルの民族を充分調べられていないのですが、可能性はあると思います。

勘合貿易には、割符の偽造などはなかったのでしょうか。

最終的にはそれに近い事態になってゆきますね。当初、勘合は室町将軍家が独占管理していますが、やがて大内氏や細川氏など交易に力のある武家へ売却するようになり、やがて大内氏への勘合の一括下げ渡し、細川氏による偽造などの事態に至ります。やがて室町…

最近の日中の歴史認識をめぐる対立は、いったいいつ頃までの歴史背景が具体的に取り扱われているのでしょうか。

それはやはり近代、満州の植民地化以降でしょうね。しかし尖閣などの領土問題に関しては、前近代にまで遡って「証拠探し」がおこなわれていますね。

義満が、国外の相手に「源」姓を名乗っているのはなぜですか。

足利や新田、北條といったウヂナは、種々に分かれた家系が必要とした、いわば通称にすぎません。正式な氏姓とは天皇から与えられたものですので、足利の場合は源氏姓になるわけです。これは対外的に、ということではなく、朝廷の儀式など正式な礼が必要な場…

明は「天皇」の存在を知っていたと思うのですが、「日本国王」は日本においてどのような位置づけになると考えていたのでしょうか。

中国王朝にとっては、天皇の存在など大きな意味を持ちません。自らの冊封した国王こそが、東アジア世界における国王なのであり、それは天皇などが存在する以前から機能していた論理です。もちろん、君主以外とは通交を結ばない海禁政策を採っていましたので…

明から「日本国王」に冊封されることが、この時代、どれだけ政治的経済的に義満に力を与えることになったのだろう。 / 私の変な愛国心が働いているのかもしれませんが、中国との国交が国家を統一するにあたって重要になることに、不満というか疑問を感じました。

上にも書きましたが、まず国際関係的、また朝鮮半島や琉球、東南アジアなどと関わりのある九州、中国・四国地方の国々と優勢な関係を築いてゆくうえでは、環東シナ海地域の覇者である明と結ぶのは大きな意味がありました。交易の利が巨大なことは平安以降の…

日明貿易における諸経費はすべて明が負担したとのことですが、成立したばかりの明がそのような負担をしていまで日本と貿易をすることになったのは、日本が何らかの圧力をかけたからなのでしょうか?

そういうわけではありません。朝貢貿易とはそういうものなのです。中国王朝は、理念上、世界を統一し支配下に収めてゆくベクトルを持ちます。世界に皇帝の徳治を行き渡らせ、蛮族に文化をもたらすのが、天から与えられた使命なのです。朝貢とは、理念上、そ…

懐良親王について、明側の冊封使が「日本国王良懐」と字をひっくり返しているのはどうしてでしょうか。良が姓、懐が諱のように考えられていたのでしょうか?

そういうわけではないと思います。中国王朝への入貢の際、使者が自分の名前を中国風に変えたりすることはよくみられますが、「良懐」の場合は彼らの側の申請に基づくものではなく、明側が冊封した国王に嘉号として与えた名前ではないか、とも思われます。す…

懐良親王が、日本国王に一時的にでもなった理由が分からなかった。懐良が南朝の人間であるなら、後醍醐を国王にするはずであることに加え、今川了俊の侵攻との関係も分からなかった。了俊から侵攻を受けたなら、なおさら国王の地位を差し出すべきではないのか? / 懐良が明からの冊封を決意したのは、天皇より上位の後ろ盾が欲しかったからとのことだが、明などという新興国による国王公認などが、どれほどの力になったのか疑問である。

明に臣属して日本国王として冊封されることの利点は、やはりひとつは交易の可能性です。懐良は九州を独立した王朝と位置づけようとしていた節があり、明へ僧侶らを使者として派遣しています。彼らは中国で政争に巻き込まれて流刑となり、現雲南省の大理へ送…

なぜ京都の寺に平重盛像としてまつられる像が、源氏方である足利尊氏の可能性が高いのでしょうか。伝尊氏像が、高師直像とされるようになった理由も知りたいです。

これについては論旨が多岐にわたり、議論が繰り返されていますが、概ね新しい見解が定着しつつあるようです。新説は、数年前まで上智で教鞭を執っていた米倉迪夫さん、東大史料編纂所の所長も務めた黒田日出男さんが主張されたもので、神護寺三像を源頼朝・…

『千金翼方』で、「三」「九」「八」などの数字がよくでてきていますが、何か固有の意味があるのでしょうか。

3はアジアにおける聖数のひとつで、多数決を決するものとして、すでに中国古代の殷の時代から重要視されています。後に、天・地・人を意味するものと位置づけられます。その10倍、100倍など数は、例えば仏教でいう「三千大千世界」など、宇宙そのものを意味…

中世の修験道の山伏たちが修行をした神体山はごく一部の奥山で、人間の開発の手を免れていたということでしょうか? また、そういう山は村落周辺のはげ山との視覚的比較から、より神聖さが増していたということは考えられますか。

山伏の修行するような場所は、かなりの奥山です。平安期には、古記録に修験道の人々の話題が出て来ますが、彼らも鞍馬や熊野など、かなり奥地の峻嶮な場所を修行の舞台としています。それらは、水田化と柴草山化の波からは逃れる場所にあったと思われます。…

富裕な百姓の存在が、貨幣経済の浸透が原因ではなく、肥料の使用の可否が原因だとの見解が面白かったです。どちらの説の方が有力なのでしょうか。

前者は通説、後者は肥料の問題から再考を要求した新説ですね。貨幣経済の浸透の問題は否定できないでしょうが、肥料の件はこれまであまり指摘されてこなかったことですので、今後重要視されてゆくでしょう。また、「金を支払わないと充分な肥料が得られない…

はげ山にするほど一生懸命米を作らなかったら、日本人はどんなものを食べていたのでしょうか。

近世では「石高制」が敷かれ、経済の単位を米に置く、世界でも極めて得意な制度が機能していた。水田だけではなく、畑地や屋敷地を含むすべて「耕地」の生産高はすべて米の生産力に換算され、米で徴収されたわけです。よって、鍬や雑穀を作っていた畑にも米…

トブサタテという林業の風習に関心を持ちました。これで本当に木は再生するのでしょうか。また、この名称の語源は何でしょうか。

トブサタテは「鳥総立て」と書き、トブサとは、木々の梢が鳥の止まる場所になっていることを指します。フサ=「総」は、枝葉の茂っている様子で、昔立っていた巨樹が倒れたことに因んだ、上総/下総の地名表記と同じです。トブサタテには、実質的な再生機能…

草山、柴山の用途は、焼畑とは関係ないのでしょうか。

近世段階では、確かに列島の山地各所で焼畑も行われていましたが、水田稲作が拡大し、柴草山が環境の多くを覆い始めると、その焼畑でさえ水田に変えてゆく事態になります。よって17世紀以降の柴草山の用途は、主に刈敷の草を取るためのもので、焼畑の前段階…

英語の文献で、日本人の自然観について書かれたものを読んだことがあります。そのなかで日本人は、「人間は自然の一部」という考え方を持っており、長らく自然と共生してきたが、江戸時代頃には、「人間は自然の一部でありながら、自然を豊かにする力を持っている存在である」との考え方が、学者らの間でみられるようになったとありました。このような、自然に手を加え、自然を豊かにしようという考え方は、日本特有なのでしょうか。(熊沢蕃山に「怪物」という思想があったようですが…)

江戸時代の自然観は、多く儒教思想の読み直しのなかから生じてきます。天人合一の思想のなかで、人間の究極的には自然の一部であって、相関関係のなかに置かれている。その関わりにおいて、お互いに自己を実現してゆくことが可能であると捉えるわけです。ま…

日本人のルーツはどこにあると、先生はお考えですか?

授業でもお話ししましたが、ルーツを語ろうとするところに、何か「日本人」なる自明のものが存在するような誤解が生じてしまいます。「日本人」といったとき、何がその枠組みの根拠になるのでしょうか。どこからどこまでの領域が日本なのでしょうか。北海道…

博物館レポートに関してですが、野球博物館など特定の分野に関わる施設のレポートでも構いませんか?

もちろん構いません。お任せします。

先生は時折、過去の皇国史観などの歴史観に対して、否定的な立場を取られますが、私は歴史叙述に関しても、パラダイム論が採用されるべきと考えています。過去の歴史観について、現代のパラダイムから評価を下してもよいのでしょうか?

戦前・戦中の皇国史観について、パラダイム論でみることはできません。なぜなら、昭和20年代頃までの認識と現在の認識とでは、パラダイム・シフトが起きるほどの変化はなく、むしろ連続性の方が大きいからです。皇国史観自体も、現時点で種々の形で残存して…

高校の歴史の授業では、ほとんどの生徒はテストに出る内容や教科書に載っている内容を重視する傾向が高いと思います。そうなっている原因は、教える側が生徒に歴史の面白さに触れさせる機会を作っていないからでしょう。すべての先生がそうだとは思いませんが、北條先生はいまの高校の教師についてどのような考えをお持ちですか?

初回の授業でもある程度お話ししましたが、現在、中高の教員の置かれている情況は苛酷です。授業のほかに、部活指導を含む煩瑣な校務があり、残業に次ぐ残業、帰宅してからも仕事の続きで、なかなか休む暇もないと思います。そのうえ、主体的に授業の取り組…

講義の冒頭で、死に対する考え方の相違について話されたとき、古代・中世は遺棄葬だったとのお話がありましたが、では縄文時代の屈葬や伸展葬はどういう位置づけになるのでしょうか。

歴史学者がふつう「古代」というと、考古でいう縄文・弥生は指さないことが多いのです。しかし、縄文から歴史時代までは1万年という開きがありますので、死や喪葬に対するものの考え方も変わってきます。死と再生のサイクルを信仰していた縄文の人々にとっ…

先生が、貴族文化を克服したところに真の国風文化があるのでは?と仰っていましたが、それは一体どういう意味でしょうか。貴族文化の存在を民衆が認知し、民衆にとって主要な文化の再構築を図るということでしょうか?

そうはいっていません。レジュメもよく確認していただきたいのですが、私の考えではなく、あくまで石母田正の思想です。石母田はマルクス主義者ですので、彼の考え方としては、貴族文化はあくまで民衆の収奪によって成り立っている表面的な文化に過ぎず、煌…

『詳説日本史B』(2014年)では、あたかも唐の衰退によって日本独自を作る動きが強まったかのように記述されていますが、『詳説日本史研究』(2008年)では、そこが断絶されたわけではないとしっかり書かれています。この相違は、両者の書かれた年代に原因があると思うのですが、どうでしょうか?

『詳説日本史B』の方でも、遣唐使廃止が国風文化を作ったとは書いていません。論旨の順番から、そのような誤解を生みやすくなってしまっているだけです。教科書としては、だんだんと学界の認識に近い内容に変わってきてはいます。ただし、解説本である『詳…

戦後の日本は、愛国心があまりいいものとはされていない気がします。それは、戦中の行き過ぎた愛国教育が原因でしょう。しかし、愛国心を持つことは本来当たり前のことで、国風文化について広く知ってもらうことで、私たち日本人に再び国への誇りを持ってほしかったのではないでしょうか。

これまでにも事例を挙げてお話をしてきましたが、愛国心を持つことは「当たり前のこと」ではありません。それは、国民国家という一時的な統治システムが、自己を維持するために国民を訓育してゆこうとする過程で作られてゆくものに過ぎません。前近代にあっ…

戦後から半世紀経ちますが、なぜ未だに教科書の改変は右寄りなのでしょうか。

右寄りというより、やはり国家が国民を生産するための装置ですので、その同一性を相対化するような要素はできるだけ排除したい、という意識はあるのでしょう。また、ガイダンスのときにもお話ししたように、現政権は戦後政治のなかでも卓越して国権を強化す…

東歌や防人歌などの一般庶民の歌が『万葉集』などに入るのは、貴族文化による農民文化の理解とみていいのでしょうか。

ある意味ではそうだと思います。東歌など、音韻に当時の東国の方言が反映されていますから、その在地性、史料的価値は極めて高いものです。しかし、古代王権の芸能に対するものの見方を勘案すると、ちょっと事情は違ってきます。すなわち、『万葉集』の編纂…