伽藍の様式が変化してゆくのはなぜでしょうか。

まず大きな枠組みとして、高句麗百済新羅の伽藍配置、そして隋や唐における有名諸寺院の伽藍配置があり、それらの国々とヤマト王権もしくは日本との関係、個々の寺院の創建者や中興者と各国の仏教文化、個別寺院との繋がりなどから決まってゆく面があります。それとともに、列島社会内部での寺院間の関係、その時々の寺院を取り巻く政治・社会情況にも影響されます。ヤマト王権が初めて建てた王立の寺院は舒明天皇百済大寺(吉備池廃寺。後、高市大寺から大官大寺、大安寺へ変遷)ですが、その伽藍配置は金堂と塔が東西に並列するもので、再建法隆寺などもこれを模倣して建設されたのではないかとの新説が出ています。