四神相応は、いつ頃日本に導入されたのでしょう。

最も早い例は、福岡県の竹原古墳(6世紀後半)の石室内に描かれた玄武・青龍・朱雀です。ただし、この古墳では四神思想が明確に理解できていなかったようで、玄武のデザインははっきりしませんし、青龍は馬のようにもみえます。これが7世紀末の奈良県キトラ古墳高松塚古墳になってくると、明確に四神の図像が描かれてゆきます。藤原京造営の際に陰陽師が派遣されているのは、四神相応などの思想も関連すると考えるのが定説的ですので、7世紀後半頃に導入され定着した思想だといえるでしょう。