北條です。質問ではなかったのですが、幾つか考えさせるコメントがありました。下に紹介しておきたいと思います。

1)『ナウシカ』は映画しか見たことが亡くて、「マンガ読んだ方がいいよ」と言われていたのですが、今日、その理由が分かりました。確かに問題は解決していないですね。あと、「理解できないものとしてつきあっていく」態度を、深めて考えたいと感じています。
【北條】そうですね。9.11.以降の世界において、私たちは下線部のような覚悟を常に持っておくことが必要でしょう。たやすく理解できると思うのは、動物を擬人化して捉えるように、自分の価値観に絡め取って「理解した気になっている」からではないでしょうか。
2)重要なことは自然に責任を持つことだ、とこの講義で分かった。自然への責任・共生?→敵対(前近代)→克服(近代)→無痛(現代)が、歴史的な流れであろうか。しかし、責任を持つにはどうすればよいか。責任とは何だろうか。関係の自覚がまず必要だ。
【北條】自然に対する責任とは何でしょう。必ずしも環境問題の解決に直結しなくてもいいと思うのですが、自分なりの引き受け方を探してください。まずは、引き受けようと思うことが大事なのです。
3)私はキティちゃんやディズニーはあまり好きではないので、なぜ日本人があんなにキャラクターが好きなのかよく理解できなかったのですが、今日の講義でアニミズムが関係しているという説を聞いて、納得しました。擬人化は人間の価値観を動物に押しつけた、人間至上主義の産物かも知れませんが、猫が猫でしか物事をみられないのと同じで、どんなに頑張っても、人は人間の範囲内でしか動物を理解できないと思います(知ることはできるかもしれませんが)。昔の人々が何を思って動物の擬人化を始めたのか分かりませんが、動物を理解したい、身近に感じたいと考えて作り出した文化なのだとすれば、擬人化は願いの産物なんだなと思いました。
【北條】確かに、願いの産物ではあるでしょう。人間の他者に対する想像力の基本は、「相手の身になって考えること」ですから、動物や植物も人間に引き付けて考えられてしまうのは仕方ないかも知れません。しかしここが重要なのですが、厳密にいうと「自分に引き付けて理解すること」と「相手の身になって理解すること」とは、180度ベクトルが異なるのです。前者は自分の価値観は揺るぎなく根本に据えられていますが、前者は自分の価値観の外に出ようとするものです。「人は人間の範囲内でしか動物を理解できない」というのは簡単ですが、歴史を探ってゆくと、動物や植物の価値観を〈想像〉して人間のありようを相対化もしくは否定しようとする思想、考え方は確かに存在するのです。それは、創唱宗教のような高邁なものだけではなく、民話や昔話のなかにもみられます。他者表象とは本来そういうものでしょうし、それを諦めてしまうのが、そもそも〈想像力の限界〉なのだと思います。
4)無痛文明論という話を聞いて、『ブタがいた教室』という映画を思い出しました。「いのちの授業」と称し、教室の中でブタを1年飼い、その後食べるときになって、教室はどうなるか...というストーリーなのですが、生徒はブタにPちゃんと名付け、ペットのように接していたため殺すのが惜しくなってしまいます。一方で、一昔前の人はニワトリを殺すのに何の痛みもありません。無痛文明は感じない人間を作るわけではないのかなと思いました。
【北條】こちらのコメントについては講義でも述べました。この映画で描かれたいのちの授業は、無痛文明に対するアンチ・テーゼであり、現代社会の産業分業化が進むなかで特定の人々にのみ押し付けられてしまった〈生き物を殺す痛み〉を、すべての人が共有しようという発想で始められました。また、「一昔前の人はニワトリを殺すのに何の痛みもありません」というのはどうでしょう。ぼくはちゃんと痛みを背負っていたんだと思いますよ。もともと近世までは、日本人は家畜の肉を食べたりしませんでしたし(1月に詳しくお話しします)。