日本文化は樹木の利用のうえに成り立っていると思うのですが、木を伐ったり素材として用いたりする大工や彫刻師などは、自分の行為が地獄で跳ね返ってくることを自覚していたのでしょうか?
仏教を信仰していれば、それに近い意識は持っていたかも知れません。日本では、古代から現代に至るまで、山の神や木霊に働きかけて「木を伐らせてもらう」祭儀が連綿と実践されています(もちろん、それは時代を経るにつれて希薄化していますが…)。それらはそもそも、恐ろしい力を持つ神々の祟りを回避するためのものだったので、仏教伝来以前には、祭儀さえしていれば大丈夫だという意識を持っていたでしょう。しかし、仏教が入ってくると、樹木を生命としてどう捉えるかという問題が浮上してきます。樹木も人間と同じように発心し、主体的に修行をして覚りを開くとする「草木発心修行成仏論」は、日本仏教で初めて唱えられる考え方ですが、面白いことにそうした発想は、伐採を続けている人々の周囲で起きてくるらしいのです。同論を主唱した比叡山では、当時周辺で平安京造営のための伐採が常時行われていましたし、天台宗で草木成仏論の権化のように位置付けられている天台座主良源は、樹木の伐採・運搬・管理に携わる木津氏という氏族の出身でした。