大津皇子を唆したとされる行心について、『懐風藻』と『日本書紀』で扱い方に差異があるのはどうしてでしょう?

懐風藻』が、私的な観点から叙述した文献だからでしょう。ちなみに、当時の有力貴族たちは卜占に長けた僧侶を近くに置いていたようで、『藤氏家伝』によると、鎌足にも道賢という行心と同じような存在が付いています。改心政府の顧問となった僧旻も、天文現象から占いをしていますので、中大兄皇子に仕え似たような働きをしたのかも知れません。いずれにしろ大津のブレーンの一人で、彼を選んだのは天武であったかも分かりません。持統が行心を処刑せず配流にしたのは、そうしたことから遠慮があったのかも分かりません。