『懐風藻』には、聖徳太子に関して他に記述はないのですか? 突然出てきたので不自然に思ったのですが。

懐風藻』の撰者は、天智天皇の子孫に当たる淡海三船と推測されています。そのためか序文には、天智朝の近江大津宮がヤマトの文芸のオリジンであったこと、それが壬申の乱によって灰燼に帰したため、奈良朝を生きる自分たちがそれを復興させねばならないと主張しているのです。太子の記述は、大津宮の文芸に至る歴史の一齣として書かれているので、あまり大きく取り扱われてはいません。しかし「聖徳太子」との記述、推古朝の諸改革を彼に帰す認識の背景には、皇太子ではあるものの多くの不安要素を抱え、神祇祭祀者でありながら仏教に帰依していた阿倍内親王孝謙・称徳)の立場を正当化するため、先蹤となりうる太子を喧伝する動きがあったものと考えられます。