布施屋は旅行者のみを受け入れるのですか。西洋の修道院のように、救貧などの事業はしていなかったのですか。

当時の平城京周辺の交通路上では、都市造営の現場から逃亡した役民や、貢調運脚夫として上京しながら行路で疲弊した者など、多くの窮乏者がみえました。布施屋は、基本的にはそうした人々への治療や施食を目的とし、都市での大規模な乞食行はその財源確保のためであったと考えられます。しかし、交通路沿いに建てられた布施屋と集団の管轄する範囲において、貧民救済のような事業も行われたと考えられます。灌漑施設の設置などはその発展した形なのでしょう。