ピラミッドやマヤの神殿などには頂点がありますが、日本の古墳は平たい印象があります。高さよりも大きさの方が権力を表せたのでしょうか。 / 前方後円墳は鍵穴の形で写真・図に出ていますが、正面は方形のほうとみてよいですか。 / 前方後円墳は周濠に取り巻かれていますが、その水には何か意味があるのでしょうか。 / 前方後円墳を作るのにはどれくらいの年月がかかったのでしょうか。また、それは王の死後に造営を始めるのですか、それとも王の死を見越して準備しておくのですか。 / 古墳の築造において、役夫たちの士気を保っていた

確かに、ピラミッドほどの高さは必要とはしていなかったのでしょうね。あの人工的景観自体当時としては異様で、被支配者へ訴えかけるインパクトは相当なものであったと推測されます。また、その形状自体が神仙的世界を体現しており、宗教的に高度な意味づけが行われていました。次回以降に詳しくお話ししますが、当時水は祭祀の基本であり、かつ他界への入り口とも考えられていたので、周濠は古墳とそれ以外の世界とを区切り、神聖化する機能を帯びていたとみるべきでしょう(ちなみに前方後円墳を壺型とみた場合、埋葬施設のある円部分は奥、陸橋である方部分〈産道?〉は手前となります)。
古墳が首長の生前に築造されたものなのか、あるいは死後に造営されたものなのかについては、未だ議論が続けられている最中です。最近の考古学的調査では、埋葬施設が作られそれに関する儀礼が行われたとき、墳丘は未だ完成していなかったとする事例も報告されていますが(京都府西山塚古墳)、すべてに敷衍できるかどうかは分かりません。しかし、墳丘表面の様々な装飾が埋葬終了後に行われることは確かで、長期にわたる古墳築造の各段階において、対応する祭儀が繰り返し行われるというのが、恐らく現実に近いでしょう。古墳の築造にかかる時期は規模によって異なるでしょうが、仮に多数の労働力が必要な作業を農閑期に限定した場合、数年に及ぶ歳月を費やしたと考えられます。構築過程の基本は、a)築造の諸準備(築造計画の立案・設計、選地、石材の選定、労働力の確保)→b)石室の基礎地形整備(石敷)→c)壁体基底構造の構築→d)壁体の構築→e)天井石の架構→f)墳丘および外部施設の整備、となります。これに並行して、タイミングよく石材の切り出し・運搬なども行われるのでしょうが、そうした副次的な作業においても専門技術者の指導と一般労働者の習熟、実践など様々な局面がみえてきます。今の私たちが想像するよりも、かなり困難な事業だったといるでしょう。詳しくは、右島和夫他著『古墳構築の復元的研究』(雄山閣、2003年)を参照してください。幾つかの具体的ケースに沿って、築造の工程が復元されています。しかし、その最中役夫たちのモチベーションを維持したものは何であったか、というのは難問ですね。恐らく当時の首長は民と神霊を媒介する存在であったはずで、場合によっては古墳の主自身が神そのものであった可能性もある。それらへの祭祀がきちんとなされなければ、自分たちの生活に何が起きるか分からない。寒冷多雨であった古墳時代のこと、自らの生命を維持するためにも、庶民は古墳築造に協力せざるをえなかったのでしょう。