倭の五王についてですが、讃・珍が河内集団、済・興・武が大和集団とすれば、前者をヤマト王権と称するのには少々戸惑いがあります。 / 2つの系譜が別々の集団としても、何らかの血縁関係はあったのではないでしょうか。 / 2つの系譜が、「倭」という同一の姓で継続性をアピールした理由は何なのでしょうか。 / 河内と大和との関係などは、どのような史料で明らかになったのでしょうか。

ヤマト王権という言葉は現在慣例的に使用されていますが、確かに対外的な史料の記述からも、「倭王権」と呼称するのが妥当でしょう。この言葉ならば、大和集団も河内集団も同一の範疇で把握でき、複数の系譜に属する王が一律に倭姓を名乗ったこととも対応します。王を継承する血縁集団は複数あったとしても、その統治機構・支配機構は同一でしたので、彼らにはひとつの国家を構成しているという意識があったと考えられます。対外的に同一の国家として臨むことは、卑弥呼と魏との関係が一代で潰えてしまったことを考えると、一度構築した国と国との関係も継承しやすく、種々便利であったと想像されます(それゆえに、五王は類似の官職・称号を申請し、承認されることができたわけです)。なお、大和集団と河内集団の間の血縁関係については実証できませんが、婚姻関係を結んでいた可能性は高いと思います。まったく別の出自を持つものが競合していたとしても、対立が激化して根絶されるような事態を防ぐうえでも、相互に婚姻を結んだり、あるいは擬制的な血縁関係を築いたりして、緊張の緩和が図られたと考えられます。なお、両者の関係をはっきりと物語る文献はありませんが、授業でお話ししたとおり、古墳の置かれた場所や規模、古墳群の構成、出土遺物の性格などを、『書紀』や『古事記』の記述と比較対照して類推しているわけです。