5世紀、倭国で兵士を担っていたのはどのような人々だったのでしょう。

氏族制の概念からいえば、統括していた人々、主力を形成していた人々は、後に大伴や物部といった軍事関係の伴造に編成されてゆくような豪族たちだったでしょう。また、各地域でヤマト王権に従属していた豪族たちも、自らの軍兵を保持していたはずですので、王権の命令のもとに兵力を供出したはずです。例えば、稲荷山古墳鉄剣銘のオワケ臣が「仗刀人」として奉仕していたように、その指示は東国にまで及んでいたと考えてもおかしくないでしょう。しかし現実的には、朝鮮半島への通路が紀ノ川→瀬戸内→北九州を辿ることからすると、行軍の途上で主に西日本各地から徴発を行ったとみた方がよいかもしれません。その徴発の仕方については、律令制以降のように「兵役」として一律に召集してゆくのではなく、徴発部隊を各村落へ派遣し、必要な人数を駆り集めてくるような方式だったのではないかと考えられます(ただし暴力的に連行するというわけではなく、村落のリーダーと交渉して拠出させる方法が主だったのではないでしょうか)。