何度も巨大な都を造るべく働いた人々に、きちんと賃金は支払われたのでしょうか。

基本的に、造宮の役民は労役ですので、いうなれば租税であり、賃金は支払われません(もちろん、食糧は支給されます)。ゆえに平城京段階から逃亡が相次ぎ、路上で飢渇する人々も増加する情況でした。よって実際には、平安京を建設した山背葛野地域に本拠を持つ秦氏など、在地豪族の役民動員力を大いに利用したものと考えられます。桓武自身が渡来系氏族の血を受けていましたので、そうしたネットワークの活用もあったでしょう。それでも足りない労働力については、やはり賃金を支払う雇夫の制度を活用し補っていたと考えられます。