さまざまな欠陥のあった長岡京ですが、造営の前になぜ調査を行わなかったのですか。 / 長岡京遷都は、結果として、何か利益を生み出したのでしょうか。

これもレジュメに書いたことの繰り返しになりますが、長岡遷都には、地政学的な意味で、水陸交通の結節点という利便性、淀川水系の交通に影響力を持つ秦氏の財政的援助、さらには新王朝創出の舞台として意識したことがあったのではないかと考えられています。後者はすなわち、天智皇統の開始という点で、都を少しでも、天智朝の宮都であった大津、中臣鎌足が氏寺興福寺の原型を造営した山階などへ近づけようとしたのではないか、ということです。前者については、延暦元年平城京造営関係官司廃止されて後、同2年に和気清麻呂を摂津大夫として難波宮を解体し、同3年藤原小黒麻呂藤原種継を中心に長岡視察が実行、直後に造長岡宮使(藤原種継、佐伯今毛人、紀船守、石川垣守、海上三狩、大中臣諸魚、文室忍坂麻呂、日下部雄道、丈部大麻呂、丹比真浄ら)の任命が行われました。小黒麻呂の妻は秦下嶋麻呂の娘であり、やがて平安京造営の主力となる葛野麻呂を産んでいます。また、暗殺された種継の母親も秦朝元の娘で、秦氏の人脈が濃厚であったことが窺われます。和気清麻呂難波宮を解体し、資材を長岡宮へ運び込んでいることは重要で、恐らく桓武の意向としては、同地を難波宮のような交易・外交拠点にしようとしていたのではないでしょうか。種継暗殺事件でも表面化したように平城京勢力の束縛は顕著で、まずは速やかに長岡遷都を達成することで平城京脱出を既成事実化し、そのうえでより理想に近い宮都の実現を構想していたのではないかと推測できます。そうした意味では、長岡遷都にも大きな成果があったといえます。