「この世界で生きてゆくためには、仕事を持たなければいけない」というセリフがありますが、これは主体性や生きる力を放棄していないと思えるのですが。また、ハクが、「この世界の食べ物を食べないと消えてしまう」といったことにも、何か意味があるのでしょうか。
あの世界では、労働=世界に奉仕することが主体性の代替物になりうる、ということではないでしょうか。湯屋で働くことを、アイデンティティーの代用にしている。おそらく、そういう人間は現実にも多いことでしょう。「北條勝貴」がいかなる人間かより、「上智大学講師」の方に価値を求め、アイデンティファイしてしまう。主体性のあるものは、例えば神々のように、労働しなくとも自由に振る舞えるのでしょう。
「食べ物」は、日本神話(『古事記』)にモチーフがあります。「黄泉津戸喫(ヨモツヘグイ)」といって、死後の世界で調理されたものを食べると、生きた世界に戻って来られないというものです。古墳時代の喪葬儀礼において、生/死の世界を区別して、死者が戻って来ないようにする儀礼があり、それが起源なのではないかと考えられています。通過儀礼にも、例えば婿に入った男性にその家の竃で作った料理を食べさせることで、本当の家族として組み込むというものがあったらしく、平安貴族の間でも露顕(ところあらわし。披露宴のこと)の夜に、妻方一族の有力者(父や兄)が、婿に餅を含ませるという儀礼が行われていました。世界への帰属が食べ物で表現されているわけですが、いうなれば世界との同一性を確保するツールであるわけで、やはりアイデンティティーの問題と考えることができるのではないでしょうか。