埋葬体形区分の第七・第八地域において、外部から別の葬法が入ってきたとすると、その起源としては中国や朝鮮半島が考えられますが、それらの国々にも特徴的な葬法があったのですか。 / 屈葬についてですが、二分化地域の「海に開かれていたから」という理由に疑問を持ちました。海と接しているのはどこでも同じではないでしょうか。

北九州とそれに連なる瀬戸内〜畿内、東海という地域は、海流などの関係で海の道が通っていたので、外部からの文化が入りやすく、常に異文化接触を生じ複合的な文化形態(いうなればクレオール)を構築していた地域なのです。よって弥生時代古墳時代においても、周辺から屹立する政治的・文化的共同体が大きな勢力をもって存在していました。縄文期においても類似の地域的特徴を持っていたのでしょう。中国や朝鮮からの影響ももちろん考慮すべきですが、縄文の場合はもっと広範囲に、南方の照葉樹林文化と北方のナラ林文化の競合と融合のなかで考えた方がいいかも分かりません。