死者に対する埋葬は、本当に死者への礼儀として行われたのだろうか。それとも、自分たちに死が舞い降りることを恐れて祈ったのだろうか。 / 死という悲しみを解決するために、その方法をみえない異界・他界の理の中に見出そうという気持ちがあったように思いました。確かにそこにいた人が死ぬことを「去る」として、どこへ行ってしまったのか自然界や自らの体をヒントにしてまで問いかけてゆく。道を聞く子供のように純粋な疑問が、骨の配置や儀礼に表れているように思いました。

まさに宮澤賢治と妹トシの世界ですね。文献のない縄文の人々の心性を知ることは容易ではありませんが、惜別と哀悼の気持ちは間違いなくあったでしょう。呪術や儀礼の発端には、そうした個々の情念、感性が大きく関わっているのだと思います。ただしそれが共同体に回収され、ひとつの慣習や制度として確立してゆくと、政治や社会の様々な要素が関連付けられてくる。死者という抽象化された記号が共同体の維持のために消費され、哀しいことに、個々の死者自体は忘却されてゆくことになるのではないでしょうか。