弥生の環濠集落では防御用の濠があったのに、なぜ宮都には羅城がなかったのでしょう。

弥生時代は戦争の時代といってもよく、中国の史書にも倭国大乱のことが記されています。考古学的にも、焼かれた家々や鏃の刺さった人骨など、戦争の痕跡が検出・確認されています。各地の中小の共同体が農耕の収穫などをめぐって対立し、弱小なグループはより大きな共同体へと統合され、次第に北九州・吉備・近畿・東海などで大規模な政治集団が屹立してくる。古墳時代には、近畿の集団(ヤマト王権)を盟主に連合が結ばれ、無用な戦争は回避されて社会的には安定してゆくのです。古代国家成立前夜の飛鳥時代においては、もはや大王宮を襲撃してくるような危機的事態は、王権内部の紛争以外にありえなくなっていたのでしょう。外部に対する防御は、あまり意味をなさなくなっていたのだと考えられます。