2008-05-19から1日間の記事一覧

「事実を知るだけ」それだけでいいのでしょうか?

もちろん、それでは困ります。これまで長々とお話ししてきた「環境史の視座」を思い出してくれれば、歴史学的知識の活用のあり方を分かってもらえるはずです。しかし実は、「事実をありのままに捉える」ということ自体が、本当はいちばん困難なんですよね。…

聖徳太子は実はいなかったといわれていますが……実際はどうだったのでしょう。

大山誠一さんの学説ですね。厩戸王という王子がいたことは確かですが、『日本書紀』に記されている「聖徳太子」としての彼の事績には粉飾が目立つということです。ちなみに手前味噌ですが、最近の大山さんの論考には「崇仏論争は『書紀』の構築したフィクシ…

礼が身分秩序を視覚的に表現するものだとしたら、聖徳太子の冠位十二階もそうなのですか?

そうです。服装や髪型などの身分標識も礼の重要な要素です。次回お話ししますが、推古朝は中国の礼制が本格的に輸入・実践された時代で、宮廷での立ち居振る舞い方、具体的な儀礼の進め方などが決められます。冠位十二階の制定もその一環なんですね。

宮都と都城の相違がよく分かりませんでした。 / 宮都の「御屋」と「宮処」はどちらが本当なんですか。

都城は中国で創始された都市の制度、宮都は日本固有の王宮・王城の呼び方です。「宮」が「御屋」すなわち貴人の住む建物を表し、「都」が「宮処」すなわち宮を含む周辺の空間を表します。どちらが正しいということではなく、「宮都」とは王の住む建物とその…

弥生の環濠集落では防御用の濠があったのに、なぜ宮都には羅城がなかったのでしょう。

弥生時代は戦争の時代といってもよく、中国の史書にも倭国大乱のことが記されています。考古学的にも、焼かれた家々や鏃の刺さった人骨など、戦争の痕跡が検出・確認されています。各地の中小の共同体が農耕の収穫などをめぐって対立し、弱小なグループはよ…

羅城門から朱雀門へ高低を付ける発想・技術は、やはり中国から来たものですか。また、宮都が北上してゆくのにはどのような意味があるのでしょう。

宮廷を視覚的に荘厳する発想は中国からもたらされたものでしょう。しかし、それを実現するための土木技術が、それまでの日本にまったくなかったわけではありません。例えば古墳前期より存在する首長墓〈前方後円墳〉は、高度な土木技術により計画的に築造さ…

墨家というのは儒家と道家の中間的な立場であって、儒家とは対立していないのではないでしょうか。

実際に、墨家は儒家を様々な局面で批判しています。例えば葬儀のありようについて。儒家は、礼的秩序を維持するために、王侯や士大夫ら統治階層の葬儀を盛大に行い、大量の副葬品を地中に埋納することを勧めます。しかし、墨家の考え方では人類の生産できる…

縄文時代の環状集落では、中心の墓地への埋葬はどのように行われたのですか。 / 貝塚とは違うのでしょうか? / 環状集落の中心では、何か祭祀的なことが行われていたのでしょうか?

中心核に当たる部分に、集合前の小規模集落の保持していた遺骨が集積(再葬)され、そこから放射状に新しい遺体が埋葬されてゆきます。各住居はそれを取り巻くように配置されるわけで、ちょうど遺骨がかすがいとなって住居同士を結び付ける構図になっている…

プリントの「ギリシア・キラダ湾の花粉ダイアグラム」とプラトンの部分、授業で扱っていないのではないでしょうか?

…! そうでしたか。くだらない話をしていて飛ばしてしまいましたか。来週ちょっと付け加えますが、大まかな流れはイースター島やメソポタミアと同じなので、みてもらえば分かるでしょう。ただこちらの方は、付近のミュケーネ文明が金属精錬に伴う大規模伐採…