後岡本宮において、天皇の居所が公/私に分かれたことで、政治のありようにはどのような変化が生じたのでしょう。

それまでの大王の機能には、公/私という区別が存在していなかった可能性があります。大王宮は大王の居所であって、家産機構の中枢でもあった。極めて私的な空間で、その場に出入りして奉仕する存在は、大王家の配下以外にありえなかったでしょう。それに対して、中国的な宮城の概念が導入され小墾田宮以降は、従属する豪族たちが伺候して政務を協議する場所が作られた。大王を調整役として、政権を担う諸豪族がお互いの利害を主張し、またそれを超えたところで意見を交換しあう空間が作られたのです。いうなれば、大王の権威・権力を公/私の領域に区分し、公の側においては諸豪族の利害を代表するよう制限、コントロールする余地が生まれたということになります。これこそが、〈王権〉のみで構成されていたヤマト世界に、〈政権〉が誕生した瞬間であったといえるかも知れません。