歴史家は、史料に基づいてなるべく堅実に「正しい」と思われることを導き出してゆくと聞いていたのですが、諸先生の講義を聞いていると、史料から想像力を働かせて自分なりの説を導いているなと思いました。レポートなどの考察では、このように証拠のない想像に頼ったものを記述してもよいのでしょうか?

なかなか凄い質問が来ましたね。まずいえることは、先生方の発言には証拠がないわけではないと思います。学問としての歴史学と教科としての歴史、一般教養としての歴史の間には、その考え方にも方法にも大きな隔たりがありますので、1年生には突飛に聞こえるのかも知れません。概説ではすべての傍証を挙げることはできませんし、難解な問題をカットして語ることもありますから、それがかえってものごとを分かりにくくしていることもあるでしょう。しかし、教員は百戦練磨の研究者でもあるわけですから、一般のひとより多くの文献や史料を読み、何年間も考え続けてきています。その膨大な知識と思考のなかから、幾つもの仮説を導き出しているのです。ぼくなどはまだ経験が浅い方ですが、たとえば「古代の造宮には歌が密接に関わっていた」という場合、そもそも歌の位置づけが一般のそれとは異なります。高校までは、和歌は単なる芸術、娯楽といった教え方しかしていないでしょう。しかし古代的認識においては、より呪術的な色彩を帯びています。これは次回以降詳しく触れますが、造宮と歌との関係は、6世紀段階で存在したらしい室寿歌に遡ります(『書紀』顕宗紀)。柱・梁・屋根といった住居の各部分を家長の性質と重ね合わせて誉め、祝福する歌で、新たに建てられた住居と家長を同一化しその繁栄を祈願する内容です。7世紀には、これと起源を同じくする大殿祭という祭儀が成立し、大王=天皇の宮殿を祝福して守護神の力を活性化する役割を果たしました。これらは宮讃めから御代讃めへという文脈を強く持ち、宮殿の活性化が天皇自身の守護、そして天皇の治める時代・地域の安泰へと繋がる仕組みになっています。室寿歌や大殿祭の祝詞は和歌とも親和性が強く、とくに後者には、天皇を神とする表現を持つ歌との類似性が指摘されています。そうした表現は、長い歴史のなかで次第に整備されてゆきますが、とくに持統朝の藤原京造営と同期する可能性が指摘されています。折口信夫は、持統天皇3年(689)に任命された撰善言司が、そうした表現を体系的に創出し整備した機関でなかったかと想定しています。人員を詳細にみてみますと、漢詩文の巧者や法律家、国史編纂事業参加者などのほかに、造宮卿などの建設関係官司が名を連ねているのが特徴です。次回以降に紹介する「藤原宮を造る役民の歌」や「藤原宮の御井の歌」は、持統天皇の藤原行幸に歌われた儀礼歌とされていますが、造営を正当化し祝福することに意味があるわけです。これらのことから、広瀬王と大伴安麻呂の「観」るが和歌と関連していると指摘できるのです。