崇仏論争の反証としては摂津国渋川廃寺が挙げられると思うのですが、他にどのような事実がありますか。
渋川廃寺の存在は、確かに物部氏が仏教を信奉していた可能性を訴えるものですが、崇仏論争の時期に関連付けて捉えられるものかどうか曖昧な点も残ります。他に傍証としては、蘇我氏も神祇祭祀を振興する役割を果たしていたこと、仏教以前にも列島へ外来の宗教が多く入ってきており大した軋轢もなく定着していることなどが挙げられます。前者については、例えば神を祀る祭具である玉の生産工場が、大和国の蘇我氏の勢力圏内に設営されていたことが明らかにされています。この曽我玉造遺跡は、やがて玉の生産が出雲に移管されるまで、近畿各地や東海、北陸などからも石材を得て、恐らくは国家的工場として経営されていたものと考えられています。後者では、例えば新羅からの渡来神アメノヒボコが有名で、その定着までの過程は『日本書紀』『古事記』『播磨国風土記』などにみることができます。また、『日本書紀』を子細に読み解いてみると、最終的に物部氏の滅亡に終息する蘇我・物部の抗争は、仏教の信奉をめぐるものではなく、次代の王位継承者を誰にするかという政治的抗争であったことが浮かび上がってきます。極めつけは、仏教公伝や崇仏論争を描いた『書紀』の記事とまったく同じ構造を持った記事、同じ表現を用いた文章が漢籍に多く見出されることです。これについては話が難しくなりますので、私の論文を参照してください(『王権と信仰の古代史』掲載。図書館6階210.3:A943)。