道鏡事件をでっちあげとする学説の詳細を教えてください。

道鏡事件は、奈良時代の正史『続日本紀』に記されていますが、当該部分は称徳天皇の言葉である宣命体の詔と、その間を埋める説明文とで構成されています。前者は奈良時代後半の同時代史料ですが、後者は桓武朝の『続日本紀』編纂時に書かれたものです。両者を比較すると、詔部分では宇佐八幡の神託について虚偽の報告を行った和気清麻呂と姉の法均を処罰すること、皇位継承者を擁立する軽挙妄動を戒めることしか記されておらず、人口に膾炙している道鏡皇位簒奪の動きは後に記された説明文にしかみえません。また、従来説どおりに考えると、多大な犠牲を払って道鏡の即位を阻止したはずの清麻呂が次代の光仁朝ではまったくの不遇であったり、謀反ともいえる行いをした道鏡や宇佐神官の中臣習宜阿曽麻呂の処罰が左遷で済んでいるなど、さまざまな矛盾が生じてきます。それらのことから、道鏡事件は、『続日本紀』を編纂した桓武朝が前代の天武皇統=称徳朝を批判し、新王朝=天智皇統を正当化するための創作だったとする見方が提示されているのです。