蘇我倉山田石川麻呂の今後の行く末、蘇我氏のその後について説明してください。

たぶん講義で言及すると思いますが、石川麻呂は大化5年(649)に謀叛を疑われて攻められ、自殺します。しかし、その後も蘇我氏が絶えてしまったわけではなく、壬申の乱に至るまで朝廷の中心は蘇我氏で占められており、蘇我赤兄・果安といった石川麻呂の弟たちが天智天皇(中大兄)の重臣として活躍しています。しかし、彼らは壬申の乱の折に大友皇子に付いて戦ったため、戦死したり、大海人皇子(天武)に処断されて一気に勢力を失います。ただ一つ残ったのは、やはり石川麻呂の弟の連子の系統で、恐らく天武朝に「石川氏」と改姓し、奈良時代石川年足・名足といった有力官僚を輩出しました。年足は藤原仲麻呂の右腕として彼の専制政治を助け、実物の墓誌も発掘されて残っています。