『日本書紀』の記述でのみ軽皇子と鎌足の主従関係を想定するのは心許ない。もっと他に史料はないのだろうか? / 改新政府が決裂したという件がよく分かりませんでした。

日本書紀』白雉四年是歳条には、中大兄が当時宮の置かれていた難波から飛鳥へ移りたいと奏上したものの、孝徳天皇が許さなかったため、皇祖母尊(皇極)・間人皇后を連れて強引に飛鳥へ戻ってしまった。公卿や官人たちもその後を追っていったので、孤立した天皇は退位を決意したという記述があります。恐らく、孝徳と中大兄の政治的対立が表面化したのでしょう。鎌足もこのとき中大兄に従ったと考えられますが、その言い訳と思えるのが「大織冠伝」に載る「然るに皇子の器量、与に大事を謀るに足らざりき」という一文です。講義で紹介した『書紀』と同じように軽皇子の厚遇に感謝しつつ、このような一文を挿入して、それゆえに他に共に立つべき王族を探し求めて中大兄にたどり着いた、という文脈を構築しているのです。確かに孝徳/鎌足の主従関係を想定させる史料は乏しいのですが、二人の関係が元来疎遠であったなら、あえてこのような一文を設ける必要はないわけです。地縁的な結びつきからいっても、軽皇子鎌足とは(主従といえるかいなかは微妙にしても)もともと密接な繋がりを持っていた可能性が高いようです。