乙巳の変の立役者が他にいるのだとしたら、なぜ『日本書紀』は中大兄や鎌足を祭り上げているのでしょう?

孝徳朝に中大兄と鎌足の政治的立場が急速に高まり、『日本書紀』はこの二人の政治的立場を受け継ぐ王朝が編纂してゆくことになるからです。国史編纂を始めた天武は、壬申の乱で天智の長子大友皇子を滅ぼしていますが、政治路線としては改新政府のそれを受け継ぎ、天武の妃にして天智の娘である持統も同様の立場を維持します。奈良朝の詔などをみると、皇位継承の流れは「天智天皇の定めた不改の常典(決して改変されることのない永久の決まり)」に拠ると宣言されており、天武皇統においても天智が正統視されていたことが窺われます。また、持統朝には鎌足の息子の不比等が頭角を現し、大宝律令や『日本書紀』の編纂に尽力して律令国家の基礎を築いてゆくことになるのです。