2008-10-22から1日間の記事一覧
そうです。秦氏は講義でも説明したように、元来は血のつながりのない雑多な渡来人の群集を、朝廷が「秦氏」と呼称しまとめたものです(地域ごとに職保有技術の共通するものを集めた可能性はあります)。しかし、その統括者=族長には幾つかの血統があり、時…
天智朝に亡命してきた百済王族が迎えられるまで、渡来系氏族は実務官人の地位に留まっていましたので、渡来人に征服されるかもしれないという危惧は一般的ではなかったようです。ただし、『日本書紀』には、乙巳の変の現場から自分の宮へ逃げ帰ってきた古人…
集住している土地の名前から部族名が生じてくる、というのが一般的なあり方だったでしょう。朝廷の職掌に基づくウジ名を持つ氏族は、その役割が国家運営と関わるものであるほど新たに編成された可能性が高くなります(氏族というと自然発生的なニュアンスが…
講義でも触れましたが、もともと大王の供御に奉仕していた氏族で、常に側近に位置するその情況、食料獲得の役割上海上交通などの技術に秀でていたこと(海洋系氏族の安曇、海部などと同族的関係を結んでいる)などから、王権の直轄軍を指揮する役割も帯びて…
孝徳朝に中大兄と鎌足の政治的立場が急速に高まり、『日本書紀』はこの二人の政治的立場を受け継ぐ王朝が編纂してゆくことになるからです。国史編纂を始めた天武は、壬申の乱で天智の長子大友皇子を滅ぼしていますが、政治路線としては改新政府のそれを受け…
『日本書紀』白雉四年是歳条には、中大兄が当時宮の置かれていた難波から飛鳥へ移りたいと奏上したものの、孝徳天皇が許さなかったため、皇祖母尊(皇極)・間人皇后を連れて強引に飛鳥へ戻ってしまった。公卿や官人たちもその後を追っていったので、孤立し…
さほどの政治的実権を持たなかった当時の中臣氏に、そのような野心があったとは考えられません。同族のネットワークをまとめる作業のうちに、軽皇子や阿倍氏、蘇我倉家の策謀に絡め取られていったのではないでしょうか。
以前にも触れましたが、この時期は大兄制というシステムが機能していて、母親を同じくする王族グループの長子が大兄と呼ばれ、彼らに基本的な王位継承権があったようです。なかでも、父や母が大王経験者である人間は有力でしたが、これらの条件を前提に年齢…
先週冒頭でお話しした件、関心を持ってくださった方も多かったようですね。もともとお話しするつもりでなかったものを、つい口が滑って語ってしまったので、グダグダで申し訳ありませんでした。もし「もっと知りたい!」と思った方は、拙稿「〈中心なるもの…