古代の村人には、和歌を詠えるだけの教養があったのですか?

「藤原宮の役民の作る歌」は宮廷歌人の仮託であると考えられていますが、奈良時代になると、例えば東国の農民のなかにも和歌を詠えるものが確実に出てきます。そのことは、『万葉集』に収録されている東歌、防人歌から明確に分かります。当時、兵部省からの命令で、東国から防人が進発する際、郡衙国衙で饗宴が催され、その場で防人やその家族による歌詠があったようです(現在、『万葉集』に残る天平勝宝7歳〈755〉の防人歌は、兵部少輔であった大伴家持の指示で集められたものであり、その添削や採録にも家持が関与したと考えられています)。これらには、いわゆる「東国之俚」すなわち方言も、わずかながら確認できるのです。もっとも、多くの作歌のうちから中央に認められ、『万葉集』に採録されたような歌の作り手は、班田農民のなかでもかなりの富裕層であったと思われますが。