草壁の早世について、大津の祟りによるものとの噂はなかったのでしょうか。

史料としてはまったく出てきません。大津皇子は、ほどなく二上山に改葬されますが、同山が常に藤原宮からみえることから、「鸕野皇后や草壁皇子にとって、大津皇子の怨霊というものがいまだ意識されず、恐怖の対象にならなかったことを示す」とする見解もあります(倉本一宏『持統女帝と皇位継承吉川弘文館、2009年)。しかし『日本書紀』は、草壁の亡くなる予兆として「是歳、大蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ」との不気味な記事を載せている。8世紀の『書紀』編纂当時、未だ生々しかった草壁の死の周辺には、何か胡散臭い印象があったのかも知れません。