中臣氏全体が藤原姓を名乗った経緯を教えてください。

そのあたりのことを明確に語る記述はないのですが、中臣鎌足が臨終に際して藤原姓を賜った後、中臣大嶋や意美麻呂も藤原姓を名乗っているので、一時期は宗族全体が藤原姓を許されたものと考えられるのです。しかし、『続日本紀』文武2年(698)8月丙午条によると、「藤原朝臣賜ふところの姓は、其の子不比等をして承けしむべし。但し意美麻呂等の者は、神事に供ふるに縁りて旧姓に復すべし」との詔が出て、政治を行うのが不比等の系統=藤原氏、神事を担うのが意美麻呂らの系統=中臣氏と区別されたようです。これは、自らの流れ卓越化するための不比等の施策でしょう。