土師氏から菅原氏が出ているとのことですが、どのような過程を経て学問を修得するようになったのでしょうか。 / 土師氏が活躍していた時代には、穢れの観念はなかったのでしょうか。

はっきりとは分かりませんが、恐らく礼学の研究から発展したものでしょう。大化前代の土師氏は古墳築造や喪葬儀礼、すなわち「凶礼」に従事していました。推古朝以降、ヤマト王権の宮廷は急速に中国的礼儀を受容してゆきますが、当然、凶礼の導入も図られたものと考えられます。殯儀礼の整備や諡号の使用もこの頃に進んだようです。礼は儒教の範疇ですので、そこから明経道紀伝道の研究に携わっていったのでしょう。なお、奈良時代に至るまではケガレの観念は希薄で、もちろん汚いものに対するプリミティヴな嫌悪感はありましたが、『延喜式』以降のような規定的で神経質なケガレ意識は存在しませんでした。また、ケガレが伝染してもミソギやハラエによって除去することができ、特定の一族や職能者が累代穢れたものとみなされることはなかったのです。これからは中世以降の被差別身分の生成に繋がってゆきますが、土師氏がウヂナを菅原・大枝・秋篠などに改めたことは、平安前期、次第にケガレ意識が高揚していったことを表しています。