2009-06-22から1日間の記事一覧
古代仏教史全体を俯瞰するのであれば、速見侑『日本仏教史 古代』(吉川弘文館、1986年)が便利です。また、最新の史料批判を活かして、東アジアや民衆の視点から古代仏教を読み直した著作に、吉田一彦『民衆の古代史』(風媒社、2006年)、同『古代仏教をよ…
はっきりとは分かりませんが、恐らく礼学の研究から発展したものでしょう。大化前代の土師氏は古墳築造や喪葬儀礼、すなわち「凶礼」に従事していました。推古朝以降、ヤマト王権の宮廷は急速に中国的礼儀を受容してゆきますが、当然、凶礼の導入も図られた…
よくあります。写本のなかにはかなりいい加減に写しているもの、内容を読んだり理解した形跡がなくひたすら書き続けただけのものが多くあります。それらのなかには、並んだ行に似たような字や言葉があると簡単に重複する文章を書き足してしまったり、逆に間…
忍壁親王がいかなる能力を持っていたのか物語る史料はないのですが、確かに、国史編纂や大宝律令の選定に当たっているのは、それなりの学識を評価されてのことだったと思われます。オサカベの名は皇子・皇女の養育のために設けられた名代の名称と考えられま…
節は、中国の場合、羽や牛の尾で作った旗のようなものだったようです。日本ではその材料が揃わないので、古代中国で王から将軍が「斧鉞」を託されたように、刀を与えることで代用しました。これを与えられたものは、王の権限のうち自己の意見で刑罰を断行す…
まずは、日本古代国家の法典理解が充分ではなく、唐王朝のように格式を連動させて編纂することができなかったのが原因でしょう。しかし、天武朝以降、仏教界と僧侶の存在は国政上極めて重要になっていたので、彼らの行動を規制し王権に従属させる必要があっ…
いろいろ残っています。例えば君主に対する謀反などは、賊盗律の謀反条に、「凡そ謀反及び大逆せらば、皆斬。父子、若しくは家人・資財・田宅は、並に没官。年八十及び篤疾は、並に免せ。祖孫・兄弟は、皆遠流に配せよ。…」などと詳しい規定が出ています。し…
必ずしも、すべての皇子についてそうした措置を取ったわけではないと思います。持統自身が太政大臣に任命した高市を除くと、天武の皇子のなかでは刑部が一番の実力者であり、持統にとっては煙たい存在であったのかも知れません。また講義でも指摘したように…
画師は個人的な職業ではなく、国家に奉仕する官僚です。中務省画工司に所属し、宮中の絵画や彩色を担当します。
近世には形式化し、位階と結びついた名称として、「石田治部少輔」「勝安房守」などと使われます。養老律令は、基本的には明治維新まで維持されていましたので、制度としては1000年以上続いたことになります。
もちろんそうです。「単一民族」などという発想はまやかしでしかありません。第一、日本列島は縄文時代以前より南北から相当数の人間集団の流入があり、その複合的な文化が今日までの基礎となっているのですから、「ヤマト民族」などという括り自体が政治的…
これは中国王朝の方式に倣ったものですが、祥瑞が現れるなどの祝福すべき出来事があったり、逆に災害が相次ぐなどの忌むべき事態となったときに、時間を一新して幸いを定着される、あるいは災禍を払拭する意味で改元がなされるのです。その背景には、王が空…
確かに、後世の伝承や氏文などに登場する人間もいます。例えば土師宿禰甥などは、菅原道真の流れの始祖に位置付けられてもいます。しかし、古代においては、私的な文書の残存が極めて少ないので、かつて存在していたとしても現在はみられなくなってしまって…