なぜ奈良時代においては女帝の存在が可能だったのでしょう。 / 中国ではよくないとされた女帝が、なぜ法的に認められたのですか。

日本列島の在来的な文化では、女性の王権継承の可能性は、常に排除されてはいなかったのでしょう。七世紀に推古や皇極=斉明、持統が登場するのも不自然なことではなかったのだと思います。大宝律令においても、その現実を踏まえて母系継承が承認されているのです。唐帝国で後に問題視される(最近では、後世の歴史書による誹謗中傷が多かったと考えられています)則天武后の件は、大宝律令制定の段階では日本へ情報がもたらされていませんでした。粟田真人が中国に到着したとき、彼が、「周」への国号の変更を知らなかったことが記録に出て来ます。東アジアの国際関係において有利な立場に立ちたい新羅が、唐と国交を断絶していた日本へ情報を提供しなかったからだろうと考えられています。よって、女帝の承認は中国の情況を勘案した結果ではなく、純粋に在来的文脈で行われたものと考えられます。