聖徳太子について、古代や近代の神聖化については分かりましたが、その間の武士の時代にはどうだったのでしょう。

聖徳太子が著したという「未来記」が、中世の表舞台に時折登場してきます。「未来記」は予言書で、とうぜん太子が書いたわけではありませんが、彼が『書紀』のなかで「未然のことを知る」と叙述されていたことに仮託して作成されたのです。例えば、安貞元年(1227)に歌人で有名な藤原定家がみたという未来記には、「人王八十六代の時、東夷来りて、泥王国を取る。七年丁亥歳三月、閏月あるべし。四月二十三日、西戎来り、国を従へ、世間豊饒となるべし。賢王の治世三十年、しかる後、空より獼猴、狗、人類を喰らふべしと云々」と書かれていたようです(『明月記』)。中国で漢代以降に流行した讖緯説の影響を受けていることは明白ですが、ノストラダムスの大予言のような、終末的かつ象徴的な記述となっています。未来記について論じた小峯和明さんの著書『中世日本の予言書』(岩波書店、2007年)では、承久の乱以降の鎌倉政権に対する宮廷関係者の目線を反映しているのではないかと述べられています。