中臣氏は、卜官としての機能を、すべて卜部氏に委託してしまったのでしょうか?

中臣氏の原初形態の一部は、恐らく鹿卜(いわゆる太占)を担っていた集団であったと思われます。近年の古代氏族研究の進展において、ウヂ名が職掌名を反映し、各地の品部などと密接な関わりを持ち国政を遂行している集団は、自然発生したのではなく王権に意図的に組織された可能性が高くなってきました。中臣もそのひとつと思われますが、その原初形態の一部は、恐らく鹿卜(いわゆる太占)を担っていた集団であったと思われます。鹿卜は中国では山東半島に残った「遅れた」卜占文化で、朝鮮半島も鹿卜を行っており亀卜の遺物はみつかっていません。日本では弥生時代は鹿卜が行われましたが、古墳時代になると亀卜に切り替わります。古代国家はこの亀卜の方を正統的位置に据えるわけで、中臣にとっては、鹿卜を持続させる意味はほとんどなかったのでしょう。祭祀全般の統括と神話・歴史の管理、それらを通じた王へのアドバイスを主要な役割としていったようです。