『書紀』に須弥山石が立てられた地理的場所と発掘された地点がほぼ同じであること、中国で造られた須弥山の画像やこれを模した香炉、後に東大寺大仏の蓮弁に描かれた須弥山図などと比較すると、紋様や形態に多くの類似点がみつかるためです。なお、夷狄に対する服属儀礼は、当初ヤマトの神が宿る三輪山を依代に行われていましたが、斉明朝頃から須弥山が用いられるようになりました。須弥山像はまさに立柱ともいえる姿で、男性象徴とも解釈できます。それらを奉祀する心性はアジア地域に大きな広がりを持ちますので、夷狄も須弥山が何か理解できずとも、ヤマトの崇める神聖なものであるとの認識は共有したと思われます。