継体は迎え入れられたはずなのに、なぜ20年も飛鳥に都をおけなかったのですか。

日本書紀』の記述ではそうなっていますが、実際には、ヤマト地域との間に大きな政治的確執があったということでしょう。ヤマトの大王家に大きな力がなくなっていたとすれば、それを代表していたのは大伴・物部といった側近や葛城氏系の豪族たちであったと考えられます。継体朝前後に伝統的豪族の勢力が弱まって蘇我氏が台頭してくるのも、こうした政治的不安定さの結果なのではないかと思われます。