推古朝には神祇信仰が仏教とバランスをとっていたとのことですが、『書紀』の記述からその「史実性」を判断してもいいのでしょうか。

確かに、重要な指摘ですね。『書紀』推古紀の記事のみから判断するのは危険ですが、崇仏論争から三宝興隆詔へかけての文脈が仏教=国教化ともいえる勢いで書かれているのに対し、まず崇仏論争が虚構である可能性の高いこと(少なくとも『書紀』に描かれたような様相ではなかったこと)、次代の神仏関係や神社行政から考えても、この頃長期にわたって王権の支配イデオロギーを支えていた神祇信仰を軽視するとは考えがたいこと。これらの理由から判断できるのではないかと思います。