2011-10-19から1日間の記事一覧
全体的特徴としては、歌謡がなく訓注も少ないこと、漢文としては倭習がなくα群に近いことなどが挙げられます。面白いのは独特な表記で、他の巻では「大津皇子」「高市皇子」などと書かれる人名表記が、「皇子大津」「皇子高市」と逆転していたりします。また…
『書紀』の編纂が長期にわたって行われ、その時期ごとの古代国家の情況、編纂方針に相違があったことが原因でしょう。α群が中国人によって担われたのは、当時、中国的体裁を持つ史書などの格式ある漢文は、中国人によってしか叙述しえなかったからでしょう。…
森博達説では、続守言・薩弘恪の死亡により作業が中断し、しばらく後に新たな編纂官の任命を得て再開された、との考え方になっています。
記録が確かであり、豊富に存在したところから順次編纂していったのでしょう。雄略より前の時代などは、伝承ならまだしも、「編年」に値するような記録が残っていたとは考えられませんので、ほとんど創作に近いものだと思います。乙巳の変の正当化のうえで問…
『書紀』が成立した時期、すでに高句麗も百済も滅亡していますので、朝鮮半島の国家としては新羅が外交の相手となります。しかし新羅は、白村江の戦いに至る政治情勢のなかで倭国と敵対しており、8世紀にも常に東アジアにおける競合相手として現れてきます…
「中華」とは、固有名詞であると同時に、世界の中心を意味する一般名詞でもあるのです。「小中華」とは、小規模だが当時の中国王朝に匹敵しうる帝国、という意味になりますね。
大山誠一さんは、当時の文明国である中国や朝鮮諸国に対して、まさにその文明を体現する偉人、仏教・儒教を修めた聖人を創り出そうとしたのだとの考えです。ぼくはもう少し限定的に、『書紀』の叙述を「本来」の蘇我氏中心のものから王権中心のものへ転換す…
古代の人々の認識の仕方は、やはり「現代科学」を前提にものごとを考える我々とは違っていたのだと思います。なにごとにも合理性、科学性を追求しようとする我々ですら、スピリチュアルな現象や、占い等々の事象を信じ込んでしまうこともあります。人間とい…
量的な問題より、これから講義でお話ししてゆくように、その質が問題なのです。量でいえば、雄略以前の神武・崇神・神功・応神・仁徳など、聖徳太子よりずっと豊富な記事を持った天皇・皇后たちがいますが、その大部分は創作であり史実とは認められません。
やはりその実在性でしょうね。『書紀』によれば、武内宿禰は280歳もの年齢を生きたことになります。さすがにこれは、伝承であることが明らかでしょう。戦前であればむしろ神聖性を付与されたかも分かりませんが、戦後の「科学的歴史学」では存在が許されなく…
厩戸王が有力な大王位継承者であったとすれば、やはり推古より長生きできなかったことがまず第一因でしょう。当時の大兄制のもとでは、同母集団の長子で宮を経営する大兄が、世代ごとに順番に大王位に即いてゆくことがセオリーでした。基本的に、前王が死亡…
宮内庁が天皇の陵墓として管理していますので、発掘によって彼らの標榜する「歴史」が虚偽であることが暴露されてしまうと、いろいろ面倒な問題となります。よって、今後も発掘は難しいかなと思います。しかし、歴史学・考古学系学会と宮内庁との協議はずっ…
ともに、現実の裁判を反映したものでしょう。閻魔王は、本来はインドの地獄の神ヤマ天で、仏教が中国化する際、官僚制化した中国の冥界と習合したものです。地獄の裁判官は閻魔王も含めて10人おり、彼らによる「十王裁判」で亡者の処罰が決定されます。キリ…
刺繍で作った仏像ですね。タペストリーのようなもので、奈良時代にはそれなりに作られました。2次元で、絵像に近いものです。
レジュメに挙げた『書紀』崇峻天皇即位前紀の記事は、厩戸の功績と一体化したものとして成立を遡らせようとしたに過ぎず、出土瓦等々の分析も含めて、一般的には推古天皇末年の創建だろうと考えられています。
前者は地名で通称、後者はその寺の意義を示した名前で、こちらが正式名称ということになるでしょう。このほか、寺が大規模な存在になってくると、領域内に所属する中小の道場は○○院と呼ばれたり、僧侶の生活する施設は○○坊と呼称されるなど、名称の付け方が…
確かに、重要な指摘ですね。『書紀』推古紀の記事のみから判断するのは危険ですが、崇仏論争から三宝興隆詔へかけての文脈が仏教=国教化ともいえる勢いで書かれているのに対し、まず崇仏論争が虚構である可能性の高いこと(少なくとも『書紀』に描かれたよ…