『日本書紀』のα群/β群が巻数順にまとまっていないのは、すべてが完成したあとに巻を決めていったためですか。

記録が確かであり、豊富に存在したところから順次編纂していったのでしょう。雄略より前の時代などは、伝承ならまだしも、「編年」に値するような記録が残っていたとは考えられませんので、ほとんど創作に近いものだと思います。乙巳の変の正当化のうえで問題のある推古朝、壬申の乱の評価で慎重さが必要であり、ほぼ同時代史料ともいえる天武朝も、成立が遅れるというのは理解できます。乙巳の変に直接関わる皇極・孝徳・斉明が早いのは、そもそも、その正当性を証すことが国史編纂の目的だったのではないかとの想定を可能にするように思います。