『書紀』において、聖徳太子の呼び方が複数あり、統一されていないのが気になりました。何か理由があるのでしょうか?

ひとつ考えられるのは、原史料の相違ですね。『書紀』は原史料にさまざまな粉飾や操作を施していますが、総体的にみると驚くほど粗の多い部分もみられます。太子の名称表記についても、統一的に整理しようという発想はなかったようですね。「厩戸王」ではなく「皇子」「皇太子」であることが前提で、そのうえでの美称については、太子のさまざまな徳性を讃えるものとして、そのままに残されたのでしょう。