里山は、どうして現在のように理想化されてきてしまったのでしょうか。これは上からの政策でしょうか、それとも民衆の発想なのでしょうか。

単に上からの政策とばかりはいえません。政治・社会・経済全般において米が至上の価値を持つものと扱われてきたために、それを生み出す里山の価値も高く置かれるようになったのでしょう。しかし、恐らく高度経済成長が終わるまでの日本では、それほど「里山」には関心が払われていなかったと思います。人々は豊かさを求めて都会の華やかな文化に憧れており、未だ現実の農村の姿もよく知られていたので、むしろ「里山」は忘れ去られていたともいえます。それが、経済成長に限界がみえるとともに公害を通じて環境がみなおされたり、バブル経済の崩壊によって「古き良き日本」へのノスタルジーが高まることで、徐々に「里山」がみなおされていったのでしょう。経済大国としての誇りが失われることで、世界に主張できる新たなよりどころが探された結果ともいえますね。