仮に、ヤマト王権全体でひとつの大きな軍事行動を起こすといった場合、軍事担当の氏族すべてが強調して動かしたのでしょうか。

例えば、崇仏論争の果てに起きた物部守屋討滅戦のときには、大伴・巨勢などの諸豪族・諸王子たちからなる連合軍を、蘇我馬子が率いています。それぞれの豪族たちは私兵を抱え、大伴・物部らの武力が大王の直轄軍をなしていたと考えられますが、上記討滅戦はその軍を二分する内戦だったことになります。ただし、用明大王の遺命とその他王族の支持を得ていたのは馬子だったので、大部分の軍事力は彼のもとに掌握されたのでしょう。物部軍は精強であったようですが、結局は連合軍の前に滅びることになります。