聖徳太子の「聖人化」は、当初から政治利用の目的のために行われてきたとみてよいのでしょうか。他の理由はないのでしょうか。

「政治」をどう考えるかにもよりますが、例えばフーコーなど現代思想の文脈で考えた場合、人間の生の文脈はすべて「政治」で表現できるので、聖徳太子の聖人化のすべてが政治利用だということになるでしょう。ちょっと分かりにくいですが、具体的には、聖人化は国家の側ではなく、最初は寺院の側から生じたものだと考えられています。すなわち、厩戸王によって創建された寺院、関連寺院が、彼のことを仏教的な聖人と脚色していったということですね。その言説の広がりは、恐らく飛鳥の中央貴族層にも及んでいたことでしょう。そうした前提をうまく利用しながら、まずは改新政府が、自らの立場を正当化するために聖徳太子のイメージを膨らませ、相対的に蘇我氏の活躍を弱め、貶めていったのだと推測されます。