2012-07-09から1日間の記事一覧
陰陽道の研究は、ここ15年ほどの間に飛躍的に進展しました。以下のものを参考にするとよいでしょう。○全体的なもの :小池淳一・林淳編『陰陽道の講義』(嵯峨野書院、2002年)、鈴木一馨『陰陽道―呪術と鬼神の世界―』(講談社選書メチエ、2002年)、山下克…
大山誠一さんの論考が主なものですが、他の研究者も加わって論じているものが多角的でよいと思います。同氏編の、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)・『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)がおすすめです。
神社は神道以前より存在しますので、古代史で扱うことができます。中世の神社を位置づける言説は神仏習合的なもので、『古事記』や『日本書紀』の神話とはまた質の異なるものになっています。
春成秀爾『儀礼と習俗の考古学』(塙書房、2007年)に、「性象徴の考古学」という論文が収録されていますので参照してください。
問題とされたのは、奈良時代の阿倍皇太子=孝謙・聖徳のみです。先帝の大妃であったものが皇統を維持すべく即位するということについては、群臣の了承も得られていたようです。現在女性天皇が問題視される理由は、ひとつには父系直系のシステムが明治に出来…
女性天皇については先にも書きました。中国との比較で考えるなら、日本の女性天皇は、多くが皇統を継続させるため不可避的に即位した存在であり、積極的に自ら権力を拡大してゆこうと考えたわけではありません。皇位を簒奪したという事例もありませんので、…
大王として即位していたかどうかは別問題ですが、当時の政治はほぼ馬子によって行われたとみてよいでしょう。
境部とは、外交使節等々の都への出入に関し境界儀礼を行う部民集団であり、境部臣はその統括者です。境部は阿倍氏の部民などから編成されたと考えられていますが、職務上摩理勢は、外交・対外軍事を担うようになってゆきました。蘇我氏は渡来系氏族の統括も…
蘇我氏のトップ自体は、優柔不断な印象のある蝦夷から急進的な入鹿へと移ってゆきます。蝦夷や入鹿に批判的な『書紀』ではなく、中臣鎌足の伝記である「大織冠伝」などをみると、入鹿が極めて優秀で威望を集めた人材であったことは間違いないようです。彼は…
この出先機関が置かれた当時、朝鮮半島南方の加耶諸国は倭に対して好意的であり、日本側からの樹木や特産物の輸出に対し、鉄器や鉄材を供給していました。ヤマト王権はその輸入に依拠して国内統治を進めていましたので、鉄の安定的供給のため、半島に足場を…
神道が仏教から分離したわけではありません。神祇信仰が仏教から刺激を受け、その他中国思想の影響も被りながら、自身を神道として体系化していったのです。八百万の神々は、『古事記』『書紀』の段階から成立していますので、仏教と関わり合って生まれたわ…
述作された時期が問題で、普通に考えれば、まず疑わねばならないのは『日本書紀』の編纂時期です。つまり、8世紀の初頭ということになります。『書紀』の編纂過程は次第に明らかにされつつあり、各巻ごとに、7世紀末〜8世紀初までの時期が推測されていま…
割腹はしませんね。当時は首を吊るか、あるいは頸動脈を切っているようです。
『日本書紀』は、『天皇記』『国記』だけではなく、推古朝の重要政策のほぼすべてを、聖徳太子が蘇我馬子と共同で推進したとしているのです。『天皇記』などの記述と同様に、「皇太子」という当時はなかった身分の字句が挿入され、記事が作られています。当…
聖徳太子ほどに、あらゆる局面で時空を超えて利用される人物はいないかもしれません。しかし知名度のある偉人ならば、近接した時代情況のなかでさまざまに利用され、消費されています。例えば坂本龍馬ですが、日露戦争の折に昭憲皇后の枕元に立ち、日本の勝…
「政治」をどう考えるかにもよりますが、例えばフーコーなど現代思想の文脈で考えた場合、人間の生の文脈はすべて「政治」で表現できるので、聖徳太子の聖人化のすべてが政治利用だということになるでしょう。ちょっと分かりにくいですが、具体的には、聖人…
「四夷」といいますが、東西南北に異民族を想定する考え方自体は非常に形式的なものです。しかし、当時の中原地方が四方を異文化・異民族に囲まれており、具体的な何かを前にしながら整理されていった概念でもあります。獣を意味する狄・戎は、狩猟や遊牧を…
確かに、「仏教信仰」が大きな混乱もなく受容されていった、ということはあります。しかしそれが、どの程度「仏教思想」を理解したものだったのか考えると、大変疑問でもあるのです。仏教はインドで生まれ、西域を通って中国、朝鮮半島、日本へと伝来します…