崇仏論争は漢籍からの引き写しとのことですが、そのアイディアを持ってきたのは誰でしょう。遣隋使でしょうか、渡来人でしょうか? 時代的には渡来人と思えますが…。

述作された時期が問題で、普通に考えれば、まず疑わねばならないのは『日本書紀』の編纂時期です。つまり、8世紀の初頭ということになります。『書紀』の編纂過程は次第に明らかにされつつあり、各巻ごとに、7世紀末〜8世紀初までの時期が推測されています。崇仏論争の収められている欽明〜崇峻紀は持統朝に、中国人官僚の手によって成ったとの見解が有力です(文章が正格漢文の形式を取り、歌謡なども中国語音韻で記されているため)。彼らは白村江の戦いによって捕虜となった中国人でしたが、彼らの知識や漢籍の読解能力が活かされたことは間違いないでしょう。